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林紘義著作集第四巻・観念論的・宗教的迷妄との闘い(1999年)

スターリン体制から「自由化」へ―現代「社会主義」体制論 国家資本主義の内的「進化」のあとづけ (1972年)

宮本・不破への公開質問状―ハンガリー事件・スターリン批判・ポーランド問題について (1982年)

我々の闘いの軌跡―“左”右の日和見主義に反対して 栗木伸一評論集 (1979年)

新たな労働者党の建設をめざして―吉岡直人遺稿集 (1974年)

資本主義の民主的改良か社会主義的変革か―日本共産党批判 (1974年)

ジャガノートの車輪の下で―苦悩し闘う労働者たち (1978年)

労働者派・社会主義派の代表を国会へ!―マル労同は第34回衆院選を闘い抜く (1976年)

革命的社会主義の旗をかかげて―マル労同は選挙斗争をどう斗うか (1975年)

破産した“革新”幻想―美濃部都政8年の総括 (1975年)


雨宮処凛 『生きさせろ』 を読む

『海つばめ』 第1067号2008年4月20日より

 「プレカリアートのジャンヌダルク」の異名を持つ雨宮処凜の『生きさせろ――難民化する若者たち』を読んだ(プレカリアートとは Precario=「不安定な」と proletariato=「プロレタリアート」のイタリア生まれの合成語)。
 フリーター、パート、派遣、請負など今や1600万人を超える非正規労働者の労働と生活と闘いを描いたもので、彼らのおかれている実態を生々しく伝えていているが、その一節に「愛国心とフリーター」というのがあって興味深かった。
 「社会のせいにしたくない」――これは雨宮がフリーターからよく聞かされる言葉だそうだ。雨宮は言う。
 「この言葉を聞くたびに私は事態の複雑さに思わず頭を抱えたくなる。……自己責任論が大手を振ってまかり通るなか、自分自身の状況を社会にも問題があるとすることはあまりにも勇気がいる」
 「自己責任論」の洪水のなか、「プライド」も働いて、彼らは自分の置かれている非人間的な状況をストレートに「社会のせい」にできず、また「自分が声を上げたところで何かが変わるなんていう、社会に対しての最低限の信頼すら持」てないところにまで追いつめられてしまう、というのだ。
 雨宮はインタビュー中、あるフリーターが口にした「もっと貧しい国のことを思うとだいぶありがたい」という言葉を引き、これに自分の過去を重ね合わせてこう続ける。
 「私自身、まさにまったく同じことを……。自分が貧しくても、不安定でも、まぁアフリカなんかの飢え死にしているような人にくらべればだいぶマシだ、と思っていた。そう思わないと自分の状況を肯定できないからこそ、そうした。自分自身について、せめて幸福だと思えることが、とりあえず『先進国である日本に生まれた』ことくらいしかないのだ。なんだか過去の自分が可哀想になってきた……。しかし、漠然としたその感覚は、『愛国』にさらりと絡めとられる。私自身も思いきり絡めとられた一人だ。フリーターだった十年ほど前、何を隠そう、二年ほど右翼団体に入っていたのだから……」
 ここには虐げられた不安定労働者層の人々が時として容易に右翼の陣営に絡め取られてしまう危うさの一端が語られている。実際、彼女が所属した右翼団体の若者のほとんどがフリーターだったという。
 そういえば、ナチスやファシストが台頭し、勢力を拡大する際にも、まさに絡め取り、引き入れ、結集したのは最下層の人々ではなかったか。
 ワーキングプアと呼ばれる無権利で非組織の広範な労働者層の出現は既成の労働運動の沈滞、衰頽を打ち破り、労働運動の新たな再生をもたらす可能性を秘めている。
 しかし、それは労働者の階級的立場からの一貫した働き掛けがなされてこそであって、もしそれがなかったなら、右翼反動派の台頭に豊かな土壌をあたえる危険性も十分あるのだということ――このことを雨宮の本を読んであらためて痛感した次第である。
(東京・M)

映画 『靖国』

『海つばめ』第1067号2008年4月20日 【飛時長目

★ドキュメンタリー映画『靖国 YASUKUNI」の公開予定を前にして、東京や大阪では上映を中止する映画館が続出した。昨年末、『週刊新潮』がこの作品を「反日映画」とした記事を掲載したのをきっかけとして、右翼の妨害もある中で、自民党の国会議員が、文化庁に対して国会議員のための試写会開催を要求、政府出資の基金から映画作成へ助成金が支出されたことを問題視する発言を繰り返したことが、上映中止の背景となっている★攻撃の先頭になっているのは、安倍元首相や「つくる会」とつながりが深い稲田明美であり、南京大虐殺や沖縄「集団自決」の軍関与を否定してきた札付きの反動議員である★稲田は、映画が南京事件や小泉首相の靖国参拝違憲訴訟を取り上げていることなどをあげて「反日」の「政治宣伝」映画だとして、助成金の返還を要求している★稲田は事前の試写会を求めたことについて「検閲の意図はない」「私たちの行動が表現の自由に対する制限でないことを明らかにするためにも、上映を中止していただきたくない」と言っている。だがこれが偽りであることは、議員の働きかけを受けて中心的な登場人物である刀匠が態度を一変させ、李監督、製作会社、配給会社に対して登場場面のカットを求めたことにも明らかである。また稲田らに呼応して靖国神社も境内の撮影は許可手続きに違反するものであり、内容も「事実誤認を含む」として映像の一部削除を要求している★権力を傘にした稲田らの行動は「事前検閲」そのものであり、彼らの意に沿わない映画上映を中止させようとする策動である。
(騏)

調査捕鯨

『海つばめ』第1067号2008年4月20日【草枕】

 今や年中行事の一つと化した感の南極海での捕鯨騒動だが、今年もようやく一段落した。
 1986年に商業捕鯨が国際捕鯨委員会で一時停止されたのを受けて、日本はその翌年から調査捕鯨を開始、最初23万トンほど水揚げ量から最近では5000d前後となっている。もともと「調査」は名目に過ぎず、その科学的意義はほとんどないというのだが、農水省を先頭に「日本が誇る伝統の食文化を守れ」を錦の御旗に反捕鯨団体の激しい妨害に抗して「調査」を強行し続けてきた。
 だが「伝統食」といっても、鯨肉を全国で日常的に食べるようになったのは戦後の食糧難の時代から60年代くらいまでで、60年代半ば以降、豚、鶏、牛など他の食肉の生産と輸入が急増するとともに、肉類に占めるその割合は急減し、捕鯨停止となる80年代半ばにはわずか2〜3%ほどになっていた。つまり「伝統」と言ってもたかだか戦後の2、30年ほどのことにすぎなかったのだ。
 そして、今や鯨肉が一般家庭の食卓に上らなくなって久しく、そんな「伝統」などと全く無縁の世代が登場。この世代の好みにあわず、しかも高価なため、販売は不振で、06年には在庫が年間生産量を上回る6000dに達し、売りさばきに躍起というのが現状だ。当然赤字だが、それでもやっていけるのは事業主が農水省所管の国策会社で、毎年10億円近くの補助金がつぎ込まれ、多額の無利子融資がなされているからだ。
 つまり、小粒だが、「調査捕鯨」もまた天下り先と利権の一つと化しており、そして今や農水官僚らの最大の関心はそれの維持にあり、そのためには「日本文化を守れ」の大義名分のもと「商業捕鯨全面解禁」の非妥協路線を振り回し続けていたほうが得策と、国際捕鯨委の場でも何ら真剣に打開策を探ろうとしていないのである。
 他方、日本の強硬路線は反捕鯨派には自らの存在意義を誇示するために不可欠で、両者は激しく対立し合いながらも、その実は「共生関係」にあるとさえ言われる。
 調査捕鯨もまた民族主義を煽るだけの税金の浪費だ。
(WM)

尾崎真理子著『現代日本の小説』

『海つばめ』第1066号2008年4月6日

 戦後の日本の小説は、1980年代とりわけバブル経済のただ中にあったその後半からすっかり変わった、近代文学は終わった、ポストモダンが始まった、と言われている。小説が変質しただけでなく、小説そのものの可能性が『ユリシーズ』、『失われた時を求めて』などによってすでに汲み尽くされ、後はそれらの縮小再生産でしかない、と言う人さえいる。この年代に、多かれ少なかれ戦争の記憶を語ってきた第一次戦後派、第三の新人、内向の世代から、戦争を知らない新しく登場してきた作家への世代交代も進んだ。そして89年に昭和天皇が死去して、ひとつの時代の終焉を実感させたのであった。
 本書は、村上春樹『ノルウェイの森』、よしもとばなな『キッチン』、俵万智『サラダ記念日』と、その後大きな影響を与えた本が出版された1987年を起点として、昨年までの20年間の小説の変質過程をたどったものである。著者は読売新聞文化部の記者で、本書は「創作と出版、文学賞の現場を取材し続けてきた文芸担当記者としての、日々の実感がもとになっている」。
 『ノルウェイの森』は、37歳の主人公がビートルズの同名の曲を聞いて、学生時代を回想する形を取ったものである。この曲がはやった70年代は、全共闘の闘争が燃え上がった時代であった。彼はこの闘争から距離をおいており、直子と緑という二人の女性の間で気持ちが揺れ動いている、直子は精神のバランスを崩し、療養所に入り、やがて自殺してしまう。この小説の基調には喪失感があった。小説では直子の死であるが、それ以上に大きい何かが終わってしまった、何かが失われてしまったという喪失感である。経済の高度成長は止まってしまい、左翼政党も労働運動も学生運動もみんな沈滞してしまったことの無意識の反映であろう。こうした喪失感はよしもとの小説にも流れていた。
 彼らの小説と俵の短歌とが与えた影響は絶大で、その後の新人賞に応募してきた作品のほとんどすべてが、都市に住む青少年の気分と風俗を、日常使う言葉そのままでつづったものであるという。この応募者たちは、バブル崩壊後の「失われた10年」に成長してきたロストジェネレーションであり、村上らの喪失感に共感したのだろう。
 94年に大江健三郎がノーベル賞を受賞した。「西洋のモダニズムの伝統に通暁し、日本の戦後小説に新しい道を開き、現代における人間の様相を衝撃的に描いた」という理由からである。受賞の報を受けたばかりの大江は、記者たちに「広島の被爆体験は二十世紀の人間にとって一番大きな出来事として、死ぬまで文明の問題として考え続けていきたい」と語った。そして受賞記念講演で、68年に川端康成が「美しい日本の私」と題して話したことを念頭において、「あいまいな日本の私」と題する講演をした。大江の小説の主要な舞台は四国の村の森であったが、これは自然そのものの象徴であった。森を出たことが人間の不幸と堕落の始まりであり、文明を発展させてきた結果が原爆であった。人間はみな病み、傷つき、人間としての良いもの、美しいものを失っているとして、魂の救済による人間の再生の願いを描いてきた。もともと大江には資本主義社会の基本的な性格と全体像の認識はなかったのであるが、その彼にも停滞し退廃している日本が、輪郭も骨格も崩れたあいまいなものとして意識されたのである。
 04年、共に20歳の金原ひとみ『蛇にピアス』と綿矢りさ『蹴りたい背中』が同時受賞となって大きな話題になり、これらを載せた「文芸春秋」も単行本も爆発的に売れ、「二十歳受賞」後、いくつもある新人賞への応募者は低年齢化し、応募数は倍増しているそうである。前者はパンク少年と同棲し、無目的な日々をもてあまして酒におぼれ、舌にピアスを開け、背中に刺青を彫り、そうした自傷によって自分の存在を異化しようとする19歳の女性を描いたもの。後者はクラスで浮いた女子高生が、人気モデルおたくの男子と軽く心を通い合わせるつかの間の夏を描いた、どうと言うこともない青春小説である。
 著者は、大江を現代の「純文学」を代表する作家とし、村上を大江の継承者と位置づけている。他方で、村上らの影響をまともに受けてきた若い書き手たちが、いわゆる「平成口語体」で青少年の風俗を描くだけであり、「純文学」は変質し、アニメなどと同じになってサブカルチャー化している、小説を書くこと自体がファッションになっていると見ている。そして、その理由はパソコンにあると言う。
 「平成が深まるにつれ、百年がかりで積み上げてきた日本の近代小説、そのリアリズムの文体と思考は、ガラガラと音を立てて壊れていったように思われる」、「なぜ、このような断層が生じたのか。戦争も貧困も、学生運動も体験していない世代が増加したという、社会の変化も背景にはあるだろう。だが、この事態の要因としてペンを用いる肉筆の縦書きによるものか、ワープロ、パソコンの画面を前にキーボードを介して行われるものかという執筆方法のちがいが、意外に大きく作用しているのではないか……。そんな思いが両世代に取材を重ねてきた実感としてあるのだ」
 小説が変質した主たる理由が、社会の変化ではなくパソコンの出現だという著者の「実感」に対しては、浅薄で本末転倒だと言うだけでいいだろう。
(ちくまプリマー新書)

大江『沖縄ノート』訴訟

『海つばめ』第1066号2008年4月6日 【飛時長目

★沖縄の座間味島、渡嘉敷島の元戦隊長が『沖縄ノート』の著者である大江健三郎らに対し、「集団自決」の命令は出していないと名誉毀損と損害賠償を求めていた裁判の判決が出た。大阪地裁は、「集団自決」に「日本軍が深く関わった」としてその訴えを退けた★この判決に対し、原告側は軍が関与したという事実をもって、隊長が命令を出したというのは論理の飛躍がある、命令があったという証拠を出せとわめいている★だが、6百人もの人々が「集団自決」した問題にとって、命令の証拠があるかどうかは本質問題ではない。軍によって住民が「集団自決」に追いやられたという証言等は山ほどあり、それで十分だろう★たとえ、隊長が直接に命令を出していなかったとしても、軍の強制によって「集団自決」が起きたという事実は何も変わらない。彼らは、戦隊長の命令があったかどうか、その証拠があるかどうかという些末な論点で争い、それによって日本軍が住民を「集団自決」に追いやったという犯罪そのものを消し去ろうとしている★原告とそれを支援する「つくる会」の学者たちは、住民が援護法の補償金をもらうために軍の強制を主張したとか、命令を出したのは村の助役だとか、汚い屁理屈を並べ立てた★だが、援護法についていえば、それが制定される以前から強制が語られていた。後者は、軍による専制的な支配と関与を忘れて集団自決を「愛国美談」「殉国死」に仕立て上げる途方もない議論である★判決は命令について、伝達系統などはっきりしないと判断を保留したが、そんな悠長ことを言っているから反動がのさばるのだ。
(山)


“礼節”を欠く者

『海つばめ』第1066号2008年4月6日【草枕】

 韓国では、一九八〇年代に始まる“民主化”時代の揺れ戻しで、今や反動思想、保守思想がもてはやされているが、その一つに、「歴史の見直し」がある。
 そしてそれは教科書にも反映され、李承晩や朴正煕らの狂暴な独裁にも意義があったとか、経済的発展を保証したとかいった“見直し”が進められ、それとともに、日本の植民地統治にも、身分的社会を掘り崩すとか、工業化のきっかけになるなど、一定の意義があった、といった記述も現われた。
 まさに「韓国版・“扶桑社”教科書」というわけである。
 そしてこうした傾向はさっそく日本の反動どもに利用され、「それ見たことか、韓国でさえ日本の植民地支配にも意義があった、韓国の“近代化”を促進したと評価されているのだ、何でも日本のやったことは悪いとする“自虐史観”はここでも否定された」といった主張が振りまかれている。
 しかし韓国の一部の世論が「ひどい時代に見える過去にも積極的な契機はあった、日本の支配も歴史的に見る必要がある」と主張するのと、日本の反動が「日本の朝鮮の植民地支配は正当だった、朝鮮のためになった」と言うこととは根本的に違っている。
 韓国の主張は、日本による朝鮮の植民地支配も、結果として古い朝鮮を粉砕した面があると評価し、自らの歴史を客観化しようという試みだが、しかし同じことを、かつて朝鮮を植民地化し、野蛮に抑圧し、収奪した方が恩着せがましく口にすべきでないのは自明である。戦前の日本の資本家や軍人はただ自らの利益と利己主義のために朝鮮を武力で支配し、収奪したのであって、朝鮮人のためを思ってそうしたのではない。
 だが、軍部や資本家たちのどんな悪辣行為までも弁護する国家主義の恥知らずの連中は、韓国にも日本の植民地支配の意義を認める人々が出てきたと、まるで鬼の首でもとったかのはしゃぎようである。
 ここには、反動どもの卑しい本性が、その“品格”や“道徳性”が、つまり隣国民に対してさえ“礼節”を完全に欠いても平気な野卑ぶりが暴露されている。
(ひ)

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