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我々の闘いの軌跡―“左”右の日和見主義に反対して 栗木伸一評論集 (1979年)

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破産した“革新”幻想―美濃部都政8年の総括 (1975年)


江刺昭子著『覚めよ女たち・赤瀾会の人びと』
女性解放運動の先覚者たち

『海つばめ』第648号1997年10月5日
 「赤瀾会」というのは、一九二一年(大正十年)四月、山川菊栄、伊藤野枝、堺真柄、九津見房子、秋月静江、橋浦はる子ら、日本社会主義同盟の周りに集まった四十二名を中心に結成された日本で最初の社会主義女性団体である。
 当時、女性は、家庭にいて夫と子供のために奉仕することが本分とされ、結婚・離婚の自由もなく、また政治組織への加入はもちろん政談演説会の傍聴までも禁止されるというまったく無権利な地位におかれていた。
 こうした抑圧に抗して、二〇年には平塚らいてう、市川房枝ら自由主義的インテリを中心として、女性の自立と男女平等を掲げた新婦人協会が結成され、そして翌年には赤瀾会が組織された。組織の名称である赤瀾会の赤は革命のイメージを、瀾はさざ波の意味であった。「社会主義運動の流れに、小さなさざ波くらいはおこすことができるのではないかという気持から」(堺真柄)この名称がつけられたのである。
 赤瀾会が注目を集めたのは、二一年の第二回メーデー参加であった。
 彼らは、「赤瀾会は資本主義を倒壊し、社会主義建設の事業に参加せんとする婦人の団体であります。入っては家庭奴隷、出でては賃金奴隷以外の生活を私達に許さぬ資本主義の社会、私達の多くの姉妹を売笑婦の生活に逐う資本主義の社会、その侵略的野心のために私達から最愛の父を、子を、愛人と兄弟を奪って大砲の的とし、他国の無産者と虐殺させ合う社会、その貪婪な営利主義者の為に私達の青春を、健康を、才能を、一切の幸福を、そして生命さえも蹂躙し犠牲にし去って省みない資本主義の社会―赤瀾会はこの残虐無耻な社会に対して断乎として宣戦を布告する」というアピールを行い、メーデー参加を呼び掛けた。
 女性が初めて参加したメーデー行進は、警官との衝突を繰返し、女性は全員検束された。赤瀾会に対する弾圧は厳しくなる一方、日本社会主義同盟も、五月には解散命令がくだされ解散に追い込まれた。支柱を失った赤瀾会は、講演会や講座を開くなど社会主義と女性解放のための啓蒙活動を行うが、大衆と結び付くことができず、その年の秋には自然消滅した。
 赤瀾会は、女性解放運動の歴史にほんの一瞬姿を表して消えていった。その運動は短命に終わったが、しかし解放運動の先駆者らの勇敢な行動は全国の女性を励まし、翌年からは全国各地でメーデーに女性も加わるようになった。労働組合に組織された女性労働者がメーデーに参加したばかりではなく、女性たちが彼らを圧迫している政治と社会に目を開くきっかけを与えたという意味でも大きな役割を果たした。
 だが、女性解放運動に大きな足跡を残した赤瀾会の運動については、エピソード的に語られるだけで、まとまった研究さえなく、歴史の空白のままとなっていた。著者は、赤瀾会研究の動機について次のように書いている。
 「私が赤瀾会の聞き取りを始めた八年ほど前には、日本の婦人解放運動の二大潮流の一つ、社会主義婦人解放運動の源流である赤瀾会についてさえ専門書でもわずか数行で片づけられていた。いつ、誰が、どんな運動をやったのか、いかなる意義をもつ運動であったのか、それさえ明らかにされていないのをつきとめてみたい気持でこの仕事を始めた。そしてだんだん運動の経過やら成果やら果たした役割やらはわかってきたが、それだけではこの運動に加わった生身の人間の姿は浮かんでこない。高邁なスローガンの下にともすれば隠れがちな彼女たちの肉声を聞きたい。運動者である前に一人の女として悩み、喜び、かつ悲しんだに違いない彼女たちの実像を知りたい。ひたすらその興味につき動かされて、赤瀾会員一人一人の歩いた跡を追ってみた」
 著者は、八年間にわたって赤瀾会の生存者たちの聞き取りや遺族を訪ねて故人の話しを聞くなどの研究をおこなっているが、本書はその成果である。
 著者は、赤瀾会の歴史を著しただけではなく、迫害や弾圧に抗して、女性解放の道を進んだ人々の、その後のさまざまな生きざまを描いている。
 本書では、山川菊栄、伊藤野枝、堺真柄ら十二人について語られている。
 山川菊栄や堺真柄らは、戦前のファシズムによる弾圧の時代を生き抜き、戦後も社会主義運動や女性運動に足跡を残している。
 その一方では、伊藤野枝のように関東大震災の際に憲兵隊のテロによって虐殺されたり、高津多代子のように極貧のうちに病に倒れ短い生涯を閉じた者もいる。
 しかし、仲宗根貞代や橋浦はる子のように中途で戦列を去り、自らの過去について沈黙をまもってその後の人生を送った人々も少なくない。
 赤瀾会の女性たちのほとんどが男性の社会主義者の身内で構成されていて、その夫や兄は日本社会主義同盟に参加していた。
 しかしだからといって、中途で戦列を離れた人々のすべてが、ただたんに安易に夫や兄らの後について、権力に反抗したり、主張したのではない。なによりも、女性を無権利で抑圧された地位を押しつけていた社会こそが彼らを赤瀾会に参加させたのであると、著者は強調している。そして当時の運動について、「少しもいじけたところがなく、貧乏にもまけず、弾圧にもめげず、心は昂然と弓のように張っている。赤瀾会の女性たちにしても、先駆者の苦労はつきまとったろうが、運動を通じて自己の生存を周囲に広げていく喜びも大きかったようだ」と述べている。
 女性解放、社会の変革のために国家権力の迫害や弾圧にもめげずに勇敢に立ち上がった先駆者たちの生きざまは、今日の闘いへはげましを与えてくれるだろう。
(大月書店刊)
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