8.F・エンゲルス 『フォイエルバッハ論』

 本書は、1888年、シュタルケのフォイエルバッハについての著作が出版されたのを機会に「ノイエ・ツアイト」の依頼に応じて、エンゲルスが執筆したものである。それ故、体裁は、若き日にマルクス、エンゲルスを夢中にさせたフォイエルバッハの哲学の総括という形をとっているが、それ以上に、マルクス主義哲学の包括的な人門書、概説書となっている。エンゲルスは長年の理論的蓄積を背景とする円熟した服をもって、ヘーゲル及びフォイエルバッハの哲学をあとつけると共に、マルクス主義哲学の核心を朗らかにしている。現在、スターリニズムの哲学が一様に人間主義といったフォイエルバッハ的観点に染まって、卑属なブルジョア的道徳主義をふりまいているだけに、本書が真剣に研究されることの意義は大きいといえる。
 現代の人間主義者達は、フォイエルバッハの哲学とマルクスの哲学の差異を、それが「観想的」か「実践的」であるかに見いだし、マルクスの唯物論の根本的特徴を「実践」を中心概念とする「実践的唯物論」たるところに見出すのが一般的である。しかし、エンゲルスは、自分たちの哲学とフォイエルバッハの哲学との差異を決してそのようなところに求めてはいない。
 エンゲルスは、唯物論についての卑属な見方に対置して、唯物論と観念論の対立は、哲学の根本的な問題である、という。「すべての哲学の、とくに近世の哲学の大きな根本問題は、思考と存在との関係の問題である」。「この問題にどう答えたかに応じて、哲学者たちは二つの大きな陣営に分裂した。自然にたいする精神の本源性を主張し、したがって結局なんらかの種類の世界創造を認めた人々は……観念論の陣営をつくった。自然を本源的なものと見た人々は、唯物論のさまざまな学派に属する」。
 フォイエルバッハの哲学の意義は、ヘーゲル流の絶対的観念論やカント流の不可知論――物の性質は認識できるが『物自体』は認識できないとする――に反対して、次の様な立場を断呼として主張した点にある。「ヘーゲルの『絶対理念』の先世界的存在、世界の存在以前の『論理的諸カテゴリーの先在』というようなものは、超世界的な創造者への信仰の空想的な残りものにすぎない。われわれ自身がその一部である物質的な、感覚的に知覚しうる世界が唯一の現実の世界であり、われわれの意識と思考は、それがどんなに超感覚的に見えようとも、物質的で肉体的な器官、脳髄の産物である。物質が精神の産物ではなくて、精神それ自身が物質の最高の産物にすぎない」。
 では、フォイエルバッハの哲学は何故にマルクス・エンゲルスによって乗り越えられなければならなかったのか? それは、フォイエルバッハが「後方では唯物論者に賛成だが、前方では賛成しない」という言葉によって俗流的な生理学的唯物論を拒否するにとどまらず、唯物論的世界観を人間社会の領域に首尾一貫して貫徹すること、「社会にかんする科学、すなわち、いわゆる歴史的および哲学的諸科学の全体を唯物論的な基礎と一致させ、この基礎のうえで再建すること」をなしえなかったことにあるのである。だから、フォイエルバッハは、社会の領域では、かれの宗教哲学や倫理学の領域では純然たる観念論者にとどまったのである。エンゲルスは、旧来の宗教にかえるに人間愛をもって人間関係の基礎にすえようとするフォイエルバッハの立場を次の様に嘲笑している。これは、現代のあらゆるプルジョア的ヒューマニズムに対する批判でもある。「今日われわれにとっては、他の人々との交際において純粋に人間的な感情を味わう可能性は、われわれがそのうちに生活している、階級対立と階級支配に基礎をおく社会によって、すでに十分に減殺されている」。フォイエルバッハの哲学は「汝らたがいに愛せよ、性と身分の区別なくたがいに抱きあえであり、万人協調の夢想である」。それは「あらゆる時代あらゆる民族、あらゆる状態に合うようにつくられており、正にそのためにどんな時代にも適用されず、現実の世界にたいしては、カントの定言的命令と同じように無力である」。
 これに対して、マルクス・エンゲルスは「現実の世界――自然と歴史――を先人の観念論的な幻想なしにそれに近づく者のだれにでも現われるままの姿で把握しようと」したのであり、「ここではじめて唯物論的な世界観がほんとうに真剣に取扱われ、問題になっているあらゆる知識分野において――少くとも根本点において――首尾一貫して展開されたのである」。そして、この仕事は、ヘーゲル哲学の「革命的側面、弁証法的方法と結び」ついて行われたのである。すなわち、「ヘーゲルにおいてはその概括した展開をさまたげていた観念論的な装飾から解放された」、「世界はできあがった事物の複合体としてでなく、諸過程の複合体と見られなければならず、そこでは外見上固定的な事物も、われわれの頭脳のうちにあるその思想的映像である概念におとらず、発生と消滅の不断の変化のうちにあり、そしてこの変化のうちで、あらゆる外見上の偶然事や一時的な後退にもかかわらず、けっきょくは前進的な発展がおこなわれている」という根本思想と結びついて行われたのである。
 マルクスの唯物論は、それが弁証法としっかり結びつくことによって真に首尾一貫した唯物論となったのであって、「実践的」か「観想的」かにフォイエルバッハの唯物論との根本的差異があるわけでは決してない。
 マルクスの唯物論は、フォイエルバッハや又あらゆるブルジョア哲学の様に人間を社会的連関から切り離された「抽象的人間」として考察するのでなく、「人間を歴史のうちで行動しているもの」と見て、「人間社会の歴史を支配的な運動法則としてつらぬいている一般的な運動法則」を発見することに成功したのである。それが唯物史観であり、それによって唯物論の哲学は近代プロレタリアートの解放闘争の理論的武器たる地位を獲得したのである。


9.F・エンゲルス 『家族・私有財産及び国家の起源』

 マルクスの唯物論的な歴史観は、周知の様に1845−6年の『ドイツ・イデオロギー』において、その基本的な輪郭が明らかにされている。そして、1859年の『経済学批判』序文で明確な形で定式化されている。
 しかし、『フォイエルバッハ論』の序文でエンゲルスが回想している様に、『ドイツ・イデオロギー』時代の彼らは、経済史的な知識が十分でなく、用語の使用や細部にわたる歴史的な位置づけの点で不明瞭な部分を残していた。それゆえ、豊富な資料の吟味の下に人類史の発展の道程を明らかにすることは、『資本論』による資本主義社会の経済的解剖と共に重要な課題の一つであった。
 二人は1870年代にこうした部面での研究を進めていたが、本書は1884年にマルクスの遺志をうけて、エンゲルスによって書き上げられたものである。エンゲルスが書名に「ルイス・H・モルガンの研究に付帯して」と副題を付している様に当時の最もすぐれた人類学者であるモルガンの著作『古代社会』の成果に依拠しつつ、人類社会が原始社会から文明時代へと発展してくる道すじに科学的な解明のメスをあてている。当時ドイツ社会民主党内には、日和見主義、改良主義的傾向がひろがりつつあり、こうした幻想と闘う意味でも、本書の出版の意義は大きいものがあった。
 本書の主要な内容をなすものは、表題に示されている通り、家族制度と国家について、その起源を明らかにし、その本質的な位置づけを与えることにある。
 まず、前半では、モルガンのアメリカインディアンについての研究の成果に依拠しつつ、家族制度についての、又、男性と女性との関係についてのプルジョア的な観念を徹底的に暴露している。すなわち、ブルジョア的な常識では、一夫一婦制の単婚制度が人類の歴史初まって以来の普遍的な婚姻の形態であるとされ、そのような立場から現状での男女関係が神聖視されているが、エンゲルスが批判するのは正にこのような超歴史的な迷妄である。
 「単婚は、けっして個人的な性愛の果実でなくそれとは絶対的に無関係であった。……それは、自然的条件ではなく、経済的条件にもとづく、すなわち原始の原生的な共同所有に対する私的所有の勝利にもとづく、最初の家族形態であった」。エンゲルスはモルガンに従って人類の発展段階を野蛮、未開、文明の三段階に分け、前二者をさらに低段階、中段階、高段階に区分し、そこにおける社会的生産力の発展をあとづけ、家族形態の変遷はこうした発展段階に基本的に照応することを明らかにしている。すなわち、野蛮の時代には群婚が、未開には対偶婚が、そして単婚は私有財産の成立と結びづいた文明の時代の歴史な家族形態であることが明らかにされる。
 それは、ブルジョアジーによって美化される様な理想的な婚姻の形態であるわけでは決してない。「それは一方の性による他方の性の抑圧として、つまりそれまで全先史時代を通じて知られなかった両性間の抗争の布告としてあらわれた」のであり「歴史にあらわれる最初の階級対立は一夫一婦性における男女の敵対の発展と一致し、また最初の階級抑圧は男性による女性の抑圧と一致する」。この単婚制度においては、古代の共産主義的世帯で「一つの公的な、社会的に必要な産業」であった「家計の運営」がその公的性格を失い、「一つの私的労働」となったのであり、「 妻は社会的な生産への参加から排除されて女中頭となった」のであり、「近代の個別家族は、妻の公然たるまた隠然たる家内奴隷制のうえにきずかれ』いるのである。
 では、このような家族制度や女性の地位はどのようにして変革することが可能なのか?「女が社会的生産労働からしめだされて家内の私的労働に限定されたままであるかぎりは、女の解放、男女の平等の地位は不可能事であるし、またいつまでも不可能事であろう、ということである。女の解放は、女が大きな社会的規模で生産に参加することができて、家内労働がもうほんのわずかしか女をわずらわさないようになるときに、はじめて可能になる。そして、こういうことは、大きな規模で婦人労働をゆるすだけでなく、本式にそれを要求し、さらに私的家内労働をもしだいに公的産業に解消しようとつとめる近代の大工業によってはじめて可能となったのである」。こうして、エンゲルスは、婦人差別に反対する闘いの意義を明らかにすると共に、男女の真の平等を実現する展望を示しているのである。
 さらに、後半部では、アメリカインディアンの氏族やギリシャの氏族、ローマ人、ケルト人、ドイツ人の氏族の歴史を分析して、そこから国家の成立の必然性と国家の本質を明らかにしている。
 国家もまた、家族がそうである様に、人類の歴史の一定の発展段階で生まれた、歴史の産物である。それは原始社会の中で社会的生産力が、分業と私有財産が生まれ、社会が搾取する者と搾取される者の二つの階級に分裂する時に始まるのであり、具体的には奴隷制の成立をもって始まるのである。エンゲルスは、国家の起源及びその役割りについて、次の様に要約している。
 「それは、この社会が自分自身との解決しえない矛盾にまきこまれ、自分でははらいのける力のない、和解しえない諸対立に分裂したことの告白である。ところで、これらの諸対立が、すなわち相対抗する経済的利害をもつ諸階級が、無益な闘争のうちに自分自身と社会をほろぼさないためには、外見上社会の上に立ってこの衝突を緩和し、それを『秩序』のわくのなかにたもつべき権力が必要となった。そして、社会からうまれながら社会のうえに立ち、社会にたいしますます外的なものとなってゆくこの権力が、国家である」。そして近代の代議制国家もまた「資本が賃労働を搾取するための道具」であること、そして、資本主義の打倒と階級の消滅によつて国家もまた不可避的に消滅するであろうことが示されている。レーニンの『国家と革命』はこのエンゲルスの著作の発展として仕上げられている。
 本書は、婦人問題、国家論の研究に欠かすことができない名著である。

(注)08年の労働者セミナーで、我々は『家族・私有財産及び国家の起源』を全面的に再検討しました。エンゲルスには、モルガンが人類の発展段階を「野蛮・未開・文明」の3段階に区分しているのをそのまま肯定的に評価するなど、“ヤンキー共和主義者”への批判的観点はありません。このことはエンゲルスの人類発展史、家族論、国家論についての“誤った”理解(ブルジョア的理解)と結びついており、本書を家族論や国家論の「名著」として無条件で美化することはできない、と現段階では考えます。詳しくは、08年の労働者セミナー案内『海つばめ』1071号、08年12月全国社研社発行の「『家族、私有財産及び国家の起源』を探る」などをご参照ください。(2009/05/09 代表委員会)


10.F・エンゲルス 『反デューリング論』

「古典案内」――マルクス、エンゲルスの部分の最後に『反デューリング論』をとりあげる。この著作は、正にマルクス主義の哲学、経済学、社会主義の全領域にわたる、最も包括的な概説書である。
 勿論、本書は、単なる「純理論的」な概説書として書かれたのではなく反対に激烈な党派闘争の産物である。直接には、当時――六・七〇年代のドイツ社会民主労働党の内部に広がった日和見主義的傾向に対する闘争の書である。エンゲルスは、そうした日和見主義の理論的代表者として、デューリングが党内で名声を博し、ベルンシュタインらにもち上げられ、さらにはペーベルまでが彼を賛美するといった事態の中で、デューリングの理論という「すっぱいリンゴ」をかじる決心をするのである。だが、デューリングの理論はヘーゲルまがいの「体系性」をもっており、その理論範囲が全般的な広がりをもっているため、それを批判したエンゲルスの著作も又、他の著作にない、包括的な性格のものとなり、「弁証法的方法と共産主義的世界観」の全面的な叙述となったのである。周知の様に、『空想から科学へ』は、本書の三つの章に手を加えて、独立の小冊子にまとめたものである。
 第一篇「哲学」では、デューリングの「現実哲学」の観念論的誤謬の暴露を通して、弁証法的唯物論の基本的観点が詳細に展開されている。デューリングは、哲学は「世界と人生とについての意識の最高形態」と称するるが、その内実は純然たるヘーゲルの「体系」のカリカチュアに他ならない。外界からではなく思惟から導き出した形式的諸原則=「世界図式」等々を自然及び人間界にあてはめ、「絶対的真理」の体現者とうぬぼれているデューリングを、エンゲルスは次の様に批判する。「存在の原則を現に存在する事がらからみちびきだすときには、われわれに必要なのは哲学などではなくて、世界とこの世界におこっている事がらに対する実証的な知識である」。数学のような抽象的な学問ですら現実的な世界の実在的な素材を材料にしているのであり、唯物論的な世界観は、このような実証的知識に基礎をおく科学的な世界観である。
 世界の統一性についてのデューリング・ヘーゲル的な妄想を批判して、エンゲルスは唯物論の原則を次の様に表明する。「世界の現実の統一性はそれらの物質性にある。そして、この物質性は、二、三の手品師的な文句によってではなく、哲学と自然科学の長々しい発展によって証明ずみのものである」。そして「空間と時間とはいっさいの存在の形式」であり、また、「運動は物質の存在の仕方」であり、「運動のない物質は、かつてどこにもなかったし、ありえない」と述べ、弁証法的な運動があらゆる自然界に貫徹していることが論証される。さらに、そうした、弁証法の基本法則として、矛盾、量の質への転化、否定の否定等が、自然及び人間社会の豊富な事例をもって説明されている。さらに、こうした弁証法的=歴史的観点から、デューリングの(従つて現代の小ブルジョア的俗物の)「自由」や「平等」についての非歴史的、形而上学的見解が暴露されている。エンゲルスは、「自由」についての弁証法的な見解を次の様に述べている。「自由とは、夢想のうちで自然法則から独立することにあるのではなく、この法則を認識することのうちに、またこの認識とともにあたえられる。……自由とは、自然必然性の認識にもとづいて、われわれ自身ならびに外的自然を支配することである」。また、人間の認識を、個別的な人間思惟の制約性と絶対的真理に無限に近づいてゆく人間の能力との矛盾として脱明しているが、レーニンは、これをうけつぎ絶対的真理と相対的真理の関係として、しっかりと定式化した。
 第二篇の「経済学」では、こうした弁証法的観点に立ってデューリングの俗流経済学的立場を批判しつつ、経済学の対象と方法、その意義、そして、価値、剰余価値、資本、地代、単純労働と複雑労働等、経済学の重要なカテゴリーに詳細な説明が与えられている。
 デューリングの観念論的な立場は、経済学においては、搾取関係に対する単なる道徳的非難や暴力論(強力論)といわれる転倒した観念となってあらわれる。彼は、資本による労働者の搾取といったものの原因を当該の時代の経済的条件の中にもとめるのではなく、反対に、政治的暴力(強力)こそが、経済的条件を決定すると結論するのである。(「安保体制」といったものに諸々の災厄の原因を求める共産党や急進派の立場は、これと五十歩百歩である)
 これに対して、エンゲルスは「経済学の任務は、むしろあらたにあらわれてきた社会的弊害が現在の生産様式の必然的な結果であり、しかもそれと同時にこの生産様式の分解がせまっている徴候であることを立証し、またこの分解しつつある経済的運動形態の内部に、これらの弊害をとりのぞく将来の新しい生産および交換の組織の諸要素を見つけだすことである」と延べデューリングやさらには古典派経済学の非歴史的な立場を批判し、価値や剰余価値、資本等についての『資本論』の核心を平易に解説している。そして、たとえば、資本についての「所有賃料」といった規定に示されるデューリングの愚劣さがこっぴどく暴露されている。また、軍事論や軍国主義についてのエンゲルスの叙述も貴重なものを含んでいる。
 最後に、第三篇の「社会主義」では、オーエン、サン・シモン、フーリエらの「空想的社会主義」、そして「共益社会」といったデューリングのプルードン的社会主義論を批判し、唯物史観に立脚する科学的社会主義の核心が展開されている。唯物史観は「いっさいの社会的変化と政治的変革との究極の原因」は「哲学にではなくその時代の経済にそれをもとめなければならない」と考えるものであり、エンゲルスは、封建社会の胎内からの資本主義社会の歴史的発展をあとづけ、社会主義、共産主義の可能性と必然性は、この資本主義社会の内的な矛盾の中に、「生産の社会的性格と所有の私的性格の矛盾」の中にあることを明らかにする。そして、「社会が生産手段を掌握することによって、「社会的生産の内部の無政府状態にかわって、計画的、意識的組織があらわれる」。これによって、「いままで人間を支配してきた、人間をとりまく生活諸条件の全範囲が、いまや人間の支配と統制に服する」のであり、「必然の国から自由の国への人類の飛躍」が実現される、と結論するのである。