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マルクス主義同志会機関紙
『海つばめ』◆隔週日曜日発行
一部200円(税込み210円)

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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第51号
2008年1月(定価800円)

・マルクス主義同志会第6回大会−国際情勢・国内情勢
・現代の世界資本主義と21世紀の人類−私利と利己と“利潤”の克服はいつの日か
・人間にとって「言語」とはなにか−ソシュール言語理論批判
・日本共産党と憲法――プチブル党の裏切りの歴史

 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
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まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動


●1076号2008年8月24日       1076号全文を読む

【一面トップ】麻生が「改革」放棄の音頭取り
 復活する“亡国”政治――選挙目当ての“バラマキ”へ

【主張】老後はカネ次第と説く
 “ブルジョア”による中学生“教育”

【一面サブ】「アイヌ有識者懇」が発足――民族主義の虚妄性と有害性
【一面連載/食糧危機を斬る――矛盾深める世界資本主義(7)】  食糧危機は自然現象ではない――ブルジョア悪党の投機を取り締まれ 【草枕】北京五輪番外篇
【コラム】飛耳長目
【二面トップ】マスコミやインテリの責任を問え
 はびこる請負・派遣労働――奴隷的地位に落とされた何百万の労働者
【各地の“草の根”政治】愛知/自民対民主の仁義なき闘い
 総選挙の前哨戦・豊橋市長選
【三面トップ】自動車/新たな国際的再編へ
 激化する市場獲得競争――ガソリン、原材料の高騰が背景に
【三面サブ】さらに深化する金融恐慌――アメリカ資本主義の脆弱性暴露
【四面トップ】生活保護認定拒否の実態を告発
 大山典宏『生活保護vsワーキングプア』
【四面書架】植田樹著『コサックのロシア』――復活する“コサック軍団”
【四面連載小説/天の火もがも(5)――林 紘義】
 こはいかに 入学即デモ、全学ストとはD

 1076号全文を読む


麻生が「改革」放棄の音頭取り
復活する“亡国”政治
選挙目当ての“バラマキ”へ

 幹事長として自民党の権力を握った、麻生の新しい策動が始まっている。単に国家主義のチャンピオンとしてだけでなく、腐敗議員、族議員の総元締めとしても登場し、“バラマキ”政策(国民買収政策)によって総選挙を勝利に導き、その勢いで権力の頂点を極めようというのである。我々は麻生の新しい策動を暴露し、その危険性、有害性を断固として明らかにしなくてはならない。

 福田内閣の“内部”に飛び込み、権力を占有するや否や、この国家主義の卑しい男はたちまち策動を開始したが、しかしそれは労働者階級にはもちろん、“国家”にとっても“由々しき”もの、最も危険で、有害なものとなっている。

 麻生は今や小泉政治のどんな残り滓も一掃して、それ以前の“古い”自民党政治に復帰するのである、つまり「構造改革」とか「財政再建」は棚上げし、今はひたすら財政支出を増やしていくべきである、と言うのである。

 彼はあらゆるチャンスをとらえて、財政再建などどうでもいい、そんなものはさっさと先送りせよ、「プライマリーバランスの均衡」など空文句だ、むしろ「景気対策」こそが最優先させられなくてはならない、国債発行三十兆円の枠などこだわる必要は全くなく、大規模な補正予算――数千億などというケチなことを言わないで、兆円規模の――を断固組むべき(「小出しはだめだ」云々)と強調し、「景気後退で企業がカネをつかえないなら、国が財政出動せざるを得ない」、「財政再建をやりながら何かすると、かなり手足をしばられる、優先順位は景気対策が先だ」、「財政再建では動けない、それより景気回復で消費を増やし、税収を上げるべきだ」とわめきたてている。

 国の首相として、福田が言いにくいなら、自民党を代表して自分が言おうというわけで、自民党と福田内閣は麻生を先頭に総選挙にむけて、全くの無節操で、国家にとって破滅的な政治に向けて、まさに「なりふり構わず」疾走し始めたのである。

 しかし、小泉内閣は明白に語ったのではないのか、もし根本的な経済社会の「構造改革」を行わないなら、「財政再建」を実現しないなら、日本の国家は破滅に向かって転がり落ちて行くしかない、と。

 とするなら、「構造改革」を放棄して元の自民党政治にもどり、財政再建を空語に変えてバラマキ政治に復帰する福田、安倍の“新路線”――というより、最も古くさい自民党政治――とは、まさに“亡国の”政治そのものではないのか。

 なぜ反動陣営、国家主義の陣営は、麻生等のこうした政治を非難しないのか。

 実際、これまでこうした“亡国の”政治、国家に寄生し、それを食いつぶし、国家を破産状態に追い込むような政治にうつつを抜かしてきたのは、国家主義的政治家というより、古賀などに代表される、族議員たちであったが、彼らはしばしば“平和主義的”でさえあった、しかし今では、国家主義的政治家の麻生もまた、政権維持と議員身分のために、国家財政を食い物にして恥じない“亡国の”政治に突進するのである。

 麻生の政治の本質は反動政治、国家主義の政治であって、そのレベルは族議員の卑しい政治ではなかったはずである、しかし今や麻生は、徹底的に無節操で下劣な本性を暴露したのである。いやしくも、理想高き(はずの)国家主義の政治家が、族議員と同様に、そのレベルにまで落ちて、最も醜く、次元の低い“バラマキ”政治にのめり込んで行くのである。

 すでに千兆円もの借金が国家にはあるのである。もしここで、財政再建路線を放棄すれば、国家財政は“最後の”つっかい棒を失い、坂道を転げ落ちるように急速に破綻に向かって突き進むしかないことは自明であろう。

 麻生は、「財政再建より景気回復で消費を増やし、税収を上げるべきだ」、「上げ潮派も増税派も不満だろうが、財政再建原理主義では経済は基本的に縮小するんですよ。パイを大きくし、その中で財政再建をしていくのが当たり前。今の状況では景気対策が優先されてしかるべきですよ」などと強調しているが、全く無責任であろう、というのは、これまでも政府自民党はしばしばこのように主張してきたが、一度として、それを実現したことはないからである。

 実際の過程は、景気回復のため、消費の拡大のためと称して、政府自民党は一九六〇年代半ば以降、大量の国債を発行してきたが(つまり借金財政を積み重ねてきたが)、たまたま「景気が回復し」、いくらか税収が増えたとしても、その借金を清算するために一円たりとも(もちろん、いくぶん誇張して言って、だが)支出しようとはしなかった。

 反対に、彼らはその増えた税収もまた、自らの政治支配のために、国民買収のために支出し続けたのであり、そして、次の景気の悪化がやってくると、財政を借金によって無責任に膨張させることを繰り返したのであり、その結果として、国家を破産状態に追い込んできたのである。

 しかし麻生は、またまたこの自民党の“伝統的な”やり方を、国家とその財政を食い物にして権力維持をはかるやり方を“復活”させ――構造改革をやり、「自民党をぶっ壊す」と豪語した小泉「改革」を経た後だというのに――、継続しようというのである。

 麻生や政府自民党の連中は、今では千兆円になんなんとする国家の借金がある、それをここで十兆円や二十兆円増やしたところで大した違いもないではないか、とうそぶくまでに頽廃している。

 もちろん、財政再建を進めれば「経済が縮小する」などというのは半デマゴギーでしかないし、また財政バラマキ政策で「パイが大きくなる」、その結果労働者にもおこぼれがいって潤うなどというのは幻想である、というのは、バラマキ支出は生産的投資ではなく、本当の意味で「パイを大きくする」ことなど不可能だからである、むしろ経済社会をますます寄生的な、ゆがんだものにし、国民経済と国家の破滅や衰退を準備し、労働者の生活も破壊しかねないのである。

 しかし麻生が、財政膨張とバラマキを叫ぶのは、景気回復のためでもなければ、経済政策として正しいからでもない、そんなことはどうでもいいのであって、本質的な問題は、総選挙で政府自民党が国民を買収するために、目に見える大規模な財政支出を必要とする、ということでしかない。

 政府自民党さえよければ“国家社会”がどうなろうと構わない、知ったことではないという、最低最悪のエゴイズム政治であるが、それが国家主義のチャンピオンによって強力にやられようとしているところが、これまでのバラマキの政治と異なっている。

 国家主義政治家の汚い政治が始まっている。それは安倍政治にも増して、いやらしく、労働者はもちろん、“国民”の総反撃に帰着するであろうし、またそうして行かなくてはならない。

 国家主義を標榜する麻生のもとで、皮肉にも、日本国家は解体へと転がり落ち始め、国家は“存亡のふち”に追いやられるのである。これはまさに国家主義の頽廃であり、破綻であるとともに、ブルジョア国家そのものの深い危機を暴露するものであろう。


老後はカネ次第と説く
“ブルジョア”による中学生“教育”

 個人にカネの運用を教える会社を設立した岡本和久が、中学校で臨時の授業を受け持った経験を語っている(日本経済新聞七月二十七日、「日本人とお金」欄)。

 テーマは「お金について」であったが、中学生がお金に否定的な考えを持っていることや、また家庭内でお金について話す生徒が半分にも満たないことに驚いて、お金の重要さを説いたという。

 「年老いたとき、君たちの生活を支えるものは君たち自身しかいない。お金について考えることは、人生を考えることと同じだ」

 子供たちに、何という“教育”を行うのだろうか。こんなくだらない――そして有害な――“教育”を知ったかぶりをしてやるからこそ、“民間”出の校長とか、講師とかいった連中(つまり“ブルジョア”たち)を信用することが全くできないのである。

 年をとったとき、人々の「生活を支える」のは金では決してないことは、カネのなかったかつての共同体社会について考えて見ればたちまち真実が明らかになる。共同体社会では、お金なるものが全く存在しなかったにもかかわらず――というのは、私有財産もなく、商品生産も存在しなかったから――、現代のブルジョア社会よりも老人たちははるかに幸せであり、その生活を共同体によって、つまり共同体の人々によって「支えられていた」のであり、そればかりではなく、はるかに尊重され、敬愛されていたのである。

 このことは現代においてもある意味で同じである、つまり老人がお金があるから自らの生活を支えられるように思われるとしても、それはその「お金」で他人の“奉仕”を、あるいは高度の“介護”や“医療”を「買う」ことができるから、またできる限りでのことにすぎない。

 もし彼がたまたま遭難して絶海の孤島にでも流れ着いたとしたなら、どんなに多額の「お金」を手元に、あるいはどこかの銀行口座に持っていたとしても、そんなものが何の役にもたたないのは自明であろう。

 しかも岡本がさらに卑しいのは、この「お金」を自らの労働の成果として理解しないで、投資によって獲得したもの、増やしたものと理解していることである。

 彼は不労所得をいかにして増やすかということを人に勧めるのを仕事にしているのである、そしてこうした仕事がまともなものだと妄想することができるのである。現代人の頽廃と衰退ぶりを暴露して余りある。

 彼は、子供たちに向かって、年をとってからのことを考えても「お金」は大切だといいながら、だからこそ、人間にとって、その生活にとって生産的労働の意義を明らかにするのではなく、いかにして働かないで、投機や投資で儲け、「資産を増やす」かが重要だとお説教をたれるのである。

 せめて、生産的労働について語ったなら、彼の言うことにも一理あると言えたかもしれない。老後をまともに生きるには、働けるときには働くことが(自分と社会の生活を支える生産的労働を担うことが)、人間の本性であり、真実であるという意味で、「老後の生活」について語ったなら、まだいくらか許せる余地はあったかもしれない、しかしこの男は、働くことなくして、いかにして「儲けるか」、持っているカネを増やせるか、といったことを説くのであり、そんな“道徳”を子供たちに説教して、大した“教育”をしていると考えることができるのである。

 現代の“ブルジョア”たちはカネがあれば老後も心配ないといった、低俗な道徳を、“世俗知”を説教する以外のどんな“知恵”も“見識”もないのである。岡本は、金次第であるのは、老後だけでなく、このブルジョア社会のすべてについてである、ということを簡単に忘れることもできるのである。

 しかしカネで「買う」ものが他人のサーヴィスだとするなら、結局、カネではなく、他人に頼っているということでしかない。そしてカネで「買う」サーヴィスに、真の愛情も人間的尊厳の保障もあるはずもないではないか。それは、共同体関係の中の“サーヴィス”と本質的に別のものである。彼らの勧めるものは何とちっぽけで、つまらないものであることか。

 日経新聞記者の結論は次のようなものである。

 「日本社会は先進国のなかで最も速く高齢化が進み、確実に家計への負担は増していく。株安を嘆くだけでなく、正面から資産運用を考える。おそれず、おごらず家計を見つめ直す。一人ひとりが将来に向けて『たくましい家計』をつくろうと動くとき、個人のお金は官が旗を振らなくても、リスクへ向い出す」

 何のことはない、千何百兆円という、個人の「金融資産」を“投資”にいかにして誘いだいすのか、といった金融資本の利益にかかわる話にすぎない。そのことが成功するなら、日本資本主義に新しい成長と繁栄が保障されるだろうという、あのブルジョアたちのくだらない世迷言こそが、話の中心なのだ。

 徹底的な個人主義の勧めであって、しかもこの個人主義はまさに寄生的で、頽廃的である、つまり個人の努力を説きながら、その内容は全く“金融資本的”であり、カネの「運用」をいかにたくみにやって「資産」をふやすか、といったものでしかない、つまりそこで問題にされていのは、株などへの投資をいかにうまくやるか(これはまた投機でもある)、といったことだけである。

 労働者はこうしたブルジョア的ないつわりの“道徳”をきっぱり拒否し、問題はカネを通しての人間関係ではない、それにおおわれない本当の人間関係であるという、社会主義的、“共同体的な”道徳を断固として対置するし、しなくてはならない。


「アイヌ有識者懇」が発足
民族主義の虚妄性と有害性

 八月十一日、政府の肝いりの機関、「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」なるものの初会合が開かれ、さきほど国会で決議されたアイヌ法を受けて、一年後に「報告書」をまとめることになった。町村が自分の議席のために懸命にバックアップし、力を入れており、この会も彼の音頭のもとで組織されている。

 町村は、この会合で挨拶し、「アイヌが名誉と尊厳を保持し、次世代に継承していくうえで必要な施策提言をお願いしたい」と、アイヌ民族主義者、自由主義者らにこびを売ったが、要するに、国も生活保護くらいならやりますよ、ということでしかない。

 実際、この会議を支配した精神は、アイヌの平均的な生活レベルは国民の平均より低い、だから生活支援を強めてほしいといったことにつき、民族の権利等々といった“高尚な”内容は何もなかったと言って決して言い過ぎではない。

 会の座長に選ばれた(つまり“有識者”の代表というわけだ)佐藤幸治(京大の名誉教授であらせられるそうだ)は、「アイヌにとって今、何が必要か、具体的な施策を考えることを優先させたい」と述べたが、この意味も、また町村の意図と同様である、つまり“アイヌ民族”の先住権を認める、その権利を保障するなどと言いながら、その具体的な内容は生活支援といった矮小なことでしかない。

 佐藤らは「有識者」などと呼ばれて持ち上げられて、一つの“知的”権威として国民全体に押しつけられているが、しかしそもそも「有識者」とは一体いかなる存在なのか。「識を有する者」ということだが、この「識」とは、知識のことか、学識か、見識か、良識か、それとも単なる常識のことか。

 政府の「何々会議」に選ばれる「有識者」といった連中をみれば、到底、「見識」とか「学識」などといったまともなものを持っているとは思われないから、せいぜい、卑俗な「良識」や「常識」の持ち主、ということであろう。むしろ「浅識」のインテリと言うべきかもしれない。

 アイヌ代表の加藤忠(ウタリ協会理事長)もまた、アイヌの経済的困窮を訴え、議論を短期、中期、長期に分けて行い、当面の優先課題を、アイヌの生活水準の向上に直結する支援策とするように要請した。彼もまた、“短期の”課題だけを議論し、中長期の課題は棚上げするというのである。何という矮小で、つまらない話であることか。

 “アイヌ民族”自身がこうした要求しか提出しえなかったということ自体が、我々がすでに論じたように、アイヌを「先住民族」とみとめ、その「権利」などを保障するとした先の国会決議が全く空虚なアナクロニズムであり、ナンセンスであったことを暴露したと言える。

 生活水準が悪いというなら、それは別に“アイヌ民族”に限ったことではない、広汎な何百万もの労働者もまた同様である。生活の問題は別にアイヌ民族ということではなく、他の国民と同様な問題として取り扱われることが、いくらでもできるのである(例えば、「アイヌである」人々に生活保護が必要だというなら、それはアイヌである、なしにかかわりなく請求し、また受給することができる等々)。ここで「アイヌ」が出て来なくてはならない、どんな必然性もないのであって(少なくともブルジョア民主主義の問題としては、つまり憲法の枠内では)、むしろ現在の社会では、生活の問題は、階級対立の問題、資本による搾取の問題として、まず議論されるべきなのである。

 むしろ、こんな形で「アイヌ民族」云々を持ち出すことは、憲法(例えば、出自や人種による差別を禁じた一四条)に違反することにさえなりかねない。

 いやしくも、民族の「権利」というからには、その内容は、民族の自主権(国家内での“自治権”)であり、さらには民族自決権、つまり独自の政府を組織すること、別個の「国家」(もちろん、国民国家、ブルジョア国家)を形成すること等々である。

 一体、国会決議は、それに賛成した諸党は、こうした認識を持ってのことであったろうか、それとも単なる卑俗な人気取りを策してのことにすぎなかったのか。それこそが問題である。

 現在において(戦後のブルジョア民主主義の国家において)、アイヌ民族主義を正当化し、擁護することは、日本(大和)民族主義を正当化し、擁護することでもあり、そこに帰着するのである。そのことを認識できない党派は、客観的に、民族主義を正当化し、あおりたてる(国民を諸民族として相互に対立させる)、ブルジョアや国家主義者たちの反動的な試みに手を貸すのであり、その自覚なき共犯者になるのである。

 もしアイヌ民族の「権利」について語るなら、なぜ、在日朝鮮人の民族的「権利」について語らないのか。確かに在日朝鮮人は「先住権」といったものは持っていないかもしれない、しかし彼らが日本に現在数十万人の規模で――つまりアイヌ人などと比較もできない規模で――住んでおり、生活しているのは、彼らの意図というより、日本の一方的な帝国主義的蛮行によってであり、その意味では、アイヌ人に決して劣らない犯罪を、日本のブルジョア国家、帝国主義国家は在日朝鮮人に対して犯している。

 もし、アイヌ人に対する生活保障等々が、過去の歴史的な犯罪に対する“罪の償い”だというなら――実際、そうした意義しか持ちえないのは自明のように思われる――、在日朝鮮人に対しても同様な問題提起がなされるべきであろう。

 在日朝鮮人はもともと日本人ではないが、アイヌ人は違う、というのか。それなら、最初にアイヌ人は日本国民とは違う民族、“先住民族”であるとした、あの国会決議はどうなるのか。「国民」としては同じだが、「民族」は違うといった、ご都合主義の奇弁に逃げ込もうというのか。

 そしてまた、アイヌ人がアイヌ民族であり、先住権等々の“民族”の権利が認められるというなら、例えば、沖縄人にさえも「民族の権利」等々が認められないわけがあろうか。

 沖縄人が、少なくとも十七世紀の初めの、薩摩藩(と幕府)による武力侵攻と支配のときまでは、立派に独立した国家(王国)であったことほどに確かなことはない。

 そしてまた、明治維新後の「琉球処分」(“沖縄県”の設置)のときまで、その王国が継続していたことも――仮に形だけであったとしても――、また明白な歴史的事実である。

 反動派は、中国国家(漢民族)がウィグル族を併合したと非難するなら(産経新聞八月十二日、湯浅博)、沖縄人を併合した日本国家も非難しなければ、少しもつじつまが合わず、首尾一貫しないのである。

 福田内閣や町村らは、沖縄人(現在の沖縄県民)にも、アイヌ人と同様な権利、あるいはそれ以上の権利――例えば、民族自決権等々――をなぜ認めないのか。アイヌ人に「民族の権利」を認めるなら、沖縄人にも当然に認められてしかるべきであろう。なぜ、そうした国会決議をやらないのか。

 もしアイヌ人だけに認めて、在日朝鮮人や沖縄人に認めないとするなら、その理由は何か。福田よ、町村を答えてみよ。

 要するに、アイヌ民族の“権利”についてのおしゃべりにあるのは、ブルジョア民主主義、自由主義特有の、ごまかしと甘えと虚偽だけである。それは本質的に、政府自民党の、あるいはよりはっきり言えば、議席さえ安泰でない町村の利己的な利害が絡んでいるにすぎない、北海道における彼らの人気取り政策であるにすぎない。札幌などを選挙区とする町村は、近づく総選挙のためにも、どうしても空っぽのアイヌ法案を必要としたのである。

 しかしもちろん、町村も、そして“アイヌ民族”の代表者たちも、決してアイヌ民族の「自決」とか、独自の政府の組織とか、そんな“大それた”ことは全く考えていない。それは「長期の」課題として棚上げされたが、しかしこの意味するところは、そんなことは一切問題にもなっていないし、問題にする意思もない、ということにすぎない、つまり“本来の”民族的問題、その権利等々の問題は存在しないと、自ら、そして最初から言っているも同然である。

 我々の『海つばめ』の先の論文に対しては、新左翼の中の一部、市民主義者たちの中から文句らしきもの、批判らしきものが“ささやかれて”いる(もし反論があるなら、堂々とすべきであろう)。

 しかし始動した「アイヌ有識者懇談会」なるものをみれば、正しいのがどちらにあるかは明白であろう。

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