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マルクス主義同志会機関紙
『海つばめ』

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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
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まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1295号 2017年2月19日
【一面トップ】トランプの経済外交=\―世界の政治経済の攪乱と解体に帰着しないのか
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】偽りの財政再建さえ挫折――20年のPB均衡化は絶望的
【二面トップ】社会主義における分配法則――それはいかに簡明に提示され得るか

※『海つばめ』PDF版見本

トランプの経済外交
世界の政治経済の攪乱と解体に帰着しないのか

 資本家的合理性も、経済法則にも無視した、筋違いで、愚かなことが、トランプ政権とともに、世界に一気に現れ、噴出してきて、世界中を当惑させ、あるいは呆れさせている。トランプはアメリカの産業と「雇用」を守ることを自らの至上の課題とも任務とも心得てか、保護主義と自国第一主義に走るのだが、しかし自分のやっていることを理解しているとはとてもみえず、あれこれの小手先細工や場当たり的やり方や政策で、それが可能であるかに思い込み、また振る舞っている。トランプのもとで、アメリカ経済は、そして世界経済は混沌と無秩序の泥沼に落ち込んで行かないで済むであろうか。

 トランプの経済政策は何であろうか。

 とにかく「雇用」を守るというのだが、誰の雇用かいえば、米国の労働者一般のではなく、大統領選挙でトランプを支持し、トランプの呼びかけに反応した労働者だというのだから、そんな立場が荒唐無稽な政策として出てくるのはけだし必然である。

 日本やメキシコからの安価な自動車の輸入を攻撃し、それをシャットアウトするとか、米国の自動車や産業に投資すべきであって、メキシコに資本を投下して自動車を作り、安い自動車を輸出するのは許さない、米国で投資して、職を失っている、あるいは失いそうな自動車労働者を救えというのだが、そんな課題が仮にあるとしても、それはトランプが自ら解決すべきことであって、国外のあれこれの資本はもちろん、国内の個々の資本に圧力をかけたり、強要したりすることでは全くない。

 米国内で資本を投下すれば、自動車の生産が増えて、雇用も保障されるなどと思うのはまるで独りよがりのナンセンスであって、資本を投下し、生産が増えても、その自動車が全く売れなかったら在庫の山だけが残って、自動車資本を一層苦境に追い込み、したがって労働者の「雇用」状況もさらに悪化することさえあり得るのである。

 呆れたことに、安倍はトランプに会いに行くに当たって、お土産として、米国に70万人もの雇用を約束すると宣言したが、さすがにそれをトランプとの会談で実際口にし、告げることはなかった。そんなことをしたら、世界中の笑いものになり、日本でも余りの屈辱的な迎合外交だと非難されるのを恐れたのだろう。

 しかし安倍が一体どんな方法で、米国での雇用を70万も増やすと言ったのであろうか、またそんな展望があったというのであろうか。

 トランプもトランプなら安倍も安倍でsる。

 そもそも米国の自動車産業の競争力や雇用の問題なら、それは日本の個々の企業や安倍政権さえも関係ないこと、関与できることでなくて、米国の自動車企業や、せいぜい国家やトランプ政府の問題である。トヨタ等々が米国の自動車生産のために投資を増やすとか、安倍政権が70万人の雇用を増やす云々は全く的外れな話であって、そんなことに安倍政権が乗り出すこと自体ナンセンスであろう。

 日本の資本が米国の自動車産業で成果を上げているのはGMとかクライスラー等々の米国の自動車資本が、米国の消費者の満足を満たさないような経営をしているからであって、米国の資本が消費者の需要を満たしていたなら、日本資本が米国に進出できる余地はほとんどなかったかもしれない。

 ドイツのVWは右ハンドルの仕様に変えたのに、それさえサボり、小型車に何の関心も持たず、そんな自動車の生産の技術も何も手にしないで、日本に進出できるはずもないのである。GMが破産したり、追い込まれたりしたのは、彼らの経営の頽廃を、その真剣さの欠如を言われ、殿様商売やガラパゴス化≠ナ自己満足にふけっていたからであると結論されても、何の反論もできないであろう。

 そして日本の資本にとっても同じことがある程度まで言えるのは、日本の電器産業の衰退ぶりを見れば明らかである。

 米国のGM等々が、日本等々の自動車資本の後塵を拝しているとか、高価格だからとか、技術的に劣っているとか、消費者の好みに沿わなくて売れないというなら、GM等々の経営改革から始めるべきであって、そんな余地もないほどに競争力が落ちているとするなら、GM等々の米国の自動車大企業は破綻し、消えてなくなるしかない。

 そんな企業や産業を救おうとしても救い得ないのは、どんな国家のどんな産業についてもいえることであって、米国だから、トランプだから救えるという話ではない。

 そもそも鎖国政策のようなことをして、頽廃する自動車産業を維持するといったことが、グローバリズムの世界でできるはずもない、というのは、米国の衰退産業を保護主義で守ることは、米国の労働者、勤労者が、国民全体が途方もない余計な経済的な負担を背負い込むということ、他の多くの産業もまた道連れに,衰退に引きずり込むということだからである。

 そもそもトランプの言っていること、やっていることは矛盾しているのであって、もし本気で米国の自動車産業や鉄鋼産業を防衛し、そのことによって米国の労働者の「雇用」を保障しようというのなら、なぜ米国の資本に投資と生産を呼びかけないで、外国の資本に食ってかかるのか、外国の資本に依存して、「雇用」を保障したり、増やすということは「米国第一主義」に反することではないのか、米国の労働者の搾取を許し、拡大することではないのか、みすみすトヨタなどに大きな儲けを保障することではないのか。

 もしトランプが、米国の自動車産業が大きな打撃を受けたのは、誘導円安による、日本車の安売り輸出のためだというなら、円安誘導を止めさせるか、ドル安の政策を取るかすればいいのであって、米国における自動車生産を増やすといったことは全く別のことである。米国の伝統的な¢ホ外におけるドル価値≠フ維持という政策を止められないとするなら、かつて繰り返したように、元高や円の切り上げを日本や中国に強要するやり方もある(85年のプラザ合意等々。このときは、円は1ドル240円から、わずかの期間に120円まで一挙に高騰した)。

 しかし安倍は、トランプの理不尽や粗雑な屁理屈に正当な立場から堂々と反論することも、異議を唱えることもできないのである、何しろ、トランプの不興を買ったら、日本の安全保障≠熏lえられないからであり、また安倍政権自体が持たないと信じ切っているからである、あるいは、実際、そうかもしれないが、それは安倍の自業自得であって、我々の知ったことではない。

 トランプが愚劣で、勝手気ままな横車を押し、安倍がそれらに応じて、ばかげた対応しかできないとするなら、日米関係そのものが壊れていくのは一つの必然ではないだろうか。しかも今後、日米の間で、エゴイズムが露骨に対立し、先鋭化しかねない経済問題≠ェ出てくるなら、そしてトランプも安倍も簡単に妥協することも、協調することもできないとするなら、日米関係は、そしてまた世界の諸国家間の関係もまた流動化し、争いと対立の混沌の中に落ち込んでいかないという保障も、争いが武力による解決にまで進まないという保障さえもない。

 後進的な資本主義の国家からの安価な商品によって、先進国の「雇用」が奪われるというなら――それ以前に、資本の破綻が問題だろうが――、他方、先進国家の資本は新たな先端産業に突破口を切り広げ、そこに資本を移し、集中することで雇用や輸出の拡大や大きな利潤を、特別利潤を手にすることができるのであって、それこそが自然の経済的な進化と発展の――個々の国家の、そしてまた世界全体の――自然の進路ではないのか。

 もちろんそれに失敗した国家は世界のトップランナーの地位を失い、他の国家にそれを譲るのだが、だからといって資本主義全体の前進がなくなるわけではない。

 こうした過程で、先進国の雇用は相対的に、そして全体としても縮小し――というのは、先端産業は資本の大きさの割には、ますます少ない労働者を吸収するから――旧産業の労働者の多くは職を見つけることができないだろうからである。例えば、IT産業の普及で、全世界で何千万の、あるいは兆の単位の「雇用」が失われると言われているが、先端産業で吸収し得る労働者はその何分の1といった数字であろう。

 しかしだからといって、資本主義は前に進むことを止めるわけにはいかない、というのは広い海洋を泳ぎ続けることで生きているマグロのように、泳ぐことを止めたら資本は死ぬ以外ないからである。

 資本主義のもとでは、これは解決不能の難問題であって、トランプといえどもデマゴギーに頼り、それをもてあそぶしかないのである。

 保護主義により、あるいは国内の、外国の資本を脅して、アメリカの「雇用」を守れと言っても、そんなやり方が表面的な、一時の効果しか持ち得ないのは、誰でも理解できることだが、権力を握ったトランプは――そして似たもの同士の安倍も――、そんなお粗末なものを万能だと思い込んでか、場当たりで、目先の解決策≠ノ飛びつくのだが、しかしそんなものはますます矛盾と困難を大きくするだけである。

 アメリカの――先進資本主義国一般の――労働者が、高価≠ネ労働者なら、そして単調な、機械的な、そしてきつい労働を嫌うなら、資本はまたより安価≠ナ、若々しく、つらい単調労働、機械的な長時間労働にも堪え得る、中国やアジアや、あるいは南アメリカやアフリカさえもの、飢えて、ハングリー精神の旺盛な、しかも豊富な労働者を求めて、また彼らの「神」である、より大きな利潤を求めて、海外に出て行くのは一つの必然であって、そんなことを止めさせ、一掃するには、世界的な規模で、何よりも先進諸国家で、資本主義を止揚する以外ないのである。

 そして資本が海外に出て行って、搾取の領域を世界に広げていくなら、その反面は、先進国家から生産的労働が消えていくこと、産業と経済の空洞化であり、衰退であり、先進国の帝国主義国家への転化であり、寄生的で、反動的で、頽廃した国家への転落である。

 ブルジョア社会では、資本がより大きな先端産業に一面的にかたよったり、あるいは新鮮で、安価な搾取材料を求めて海外にでて行くなら、国内の生産的労働者は縮小し、あるいは消えていくのである。

そして、そうした不可避的な過程は、資本主義のもとでは必然であり、解きがたい、解決不能の矛盾として出て来て、社会の根底を脅かすのだが、しかし搾取から労働が解放された社会では、単純に、そして容易に、生産性の高い、生産的な労働の合理的な再編成と組織化によって解決されるのであり、され得るのである。

   

【飛耳長目】

★政府は、3才の幼児から、国歌を教えると言い始めた。親しむだけのことだと言いつくろうが、判断力も思考力もない、幼児にまで国家主義を「叩き込もう」という根性――かつて安倍一派のろくでなしの中には、「教育とは叩き込むことだ」と叫んだ者もいた――は卑しく、愚劣であり、彼らの偏狭さに加えて、自分たちの信念≠ノ対する、自信の欠如や焦りを教えている★彼らはかつて、慰安婦問題つまり日本の天皇制軍国主義の野蛮さや狂暴さや卑しさを象徴した、植民地朝鮮の若い女性を軍隊の性奴隷として動員した問題について、そんな性に関することを中学生の教科書に載せることは、子どもの成長からいって良くないなどと叫んだが、3才の幼児に童謡でなく意味不明の国歌を押し付けることは、幼児の成長段階に立派に合致しているとでもいうのか★余りに品がなく、かつての天皇制軍部ファシストにも劣らない、彼らの精神的、道徳的頽廃を暴露して余りある。彼らはそんなことをして、国家主義者で満ち満ちた国民を生みだし得ると妄想するのだが、労働者は15年戦争を経験した結果、青少年期に「叩き込まれた」国家主義や天皇制ファシズムの悪夢から覚めたのだ★筆者の個人的経験を語れば、7才まで日常的に「叩き込まれた」天皇制軍国主義は、敗戦と共に一切洗い流され、ありがたいことに、ほんのわずかな痕跡も残らなかった。(鵬)

   
   

【主張】

偽りの財政再建さえ挫折
20年のPB均衡化は絶望的

 内閣府は、安倍政権が2020年までに均衡させると公約した基礎的財政収支(プライマリーバランス=PB)は、実際には8兆円もの赤字が残るままであるという見通しを発表した。

 しかもこの計算は、経済成長率が3%というあり得ない数字を用いているというから、本当は少なめに見ても、20兆、30兆円の赤字予算が続くのである。

 実際、30年度の赤字額は昨年の7月より3兆円増えて、すでに14兆円にも膨れあがっているという。

 PBとは、財政再建の課題から言えば一歩前進とさえいえないチケなもので、安倍政権は欺瞞的にも、そんなものを財政再建の指標として掲げてきたのである。

 PBの均衡化とは、年々の国家支出を、年々の税収で埋め合わせることだが、それだけで年々の国家収支は実際に均衡しない。

 というのは、「国債費」という支出項目がカバーされていないからである。1千兆円もの国家債務の、元利の費用である「国債費」は年々ほぼ20兆円あるから、本当は20兆円の財政赤字は続くのである、つまりPBとは偽りの財政均衡で、これでは1千兆円にも達した国家債務は1円も減らないばかりか、依然として増え続けるだけである(10兆円返して、20兆円借りるといったことだから)。

 1千兆円もの国家債務を一掃する、本当の財政再建のためには、税収を丸ごと数十年もの長期にわたって返済に回さなくてはならない勘定になる。しかし年々の国家支出をゼロにして、そんなことを続けることは事実上不可能である。

 本格的な高齢化社会を迎え、急速に増えて行きかねない国家支出を前提に、借金を完済するためには、何と国民は今の2倍、3倍の、それ以上もの税金を負担し続けなくてはならないということである。

 安倍政権はアベノミクスによって、経済の高成長と好循環が実現するなら、財政再建の目標達成は容易だと高言してきたが、アベノミクスが空証文の紙くずだとしたら、経済の好循環はその悪循環に転化するしかないのであり、今やその兆しが現れつつある。

 財政の崩壊は避けられず、長期金利が2、3%ほど上昇していくだけで、国家破産は現実のものとなりかねない。

 ブルジョア世論自体が、財政再建など不可能だ、ヘリコプターマネーでも何でもいいから、つまり紙幣を無制約にばらまいて(国民に給付して? それとも政府が支出して?)、バブルでも激しいインフレでも何でも引き起こし、国家の借金を実質上チャラにするしかないといった、無責任で、無政府主義そのもののような主張が叫ばれ始めている。

 しかし安倍政権は目先の、見かけだけの、インチキ財政再建で労働者、勤労者を欺きながら、当面の需要拡大だけを当てにした、政権の支持率のためだけのような3兆円余もの補正予算を組み、その財源は国債、しかも赤字国債で賄うというのである。

 資本主義のあれこれの矛盾や過剰生産や金融危機に対処し、それを回避し、そらすために、また政権維持のために、借金による国家財政の膨張が続いてきたのだが、そしてそんな邪道の道によって、資本主義の危機の爆発が一時的に抑えられ、そらされ、歪められ、その発現が先送りされ、すべてが国家財政の膨張に集約されてきたと言えるが、そんな積み重ねられ、深化させられてきた矛盾が大爆発して、一切のブルジョア的虚偽と小手先細工と場当たり主義を吹き飛ばし、洗い流してしまう時が近づいている。

   

社会主義における分配法則
それはいかに簡明に提示され得るか

 我々は今年の春を期して、十数年にわたる我々のサークル的£i階を止揚し、再び公然たる階級的、政治的な現実の闘いに復帰することをすでに決定し、そのための準備に没頭しています。そしてその中の一つの焦点は、当然、来るべき新しい労働者政党の綱領問題であり、そこにどんな内容を盛り込むかということですが、その焦点の一つは、社会主義における分配法則をどんな形で明示するかという問題です。それは歴史上、どんな労働者党派もいまだなし得ていない、困難な問題です。

課題解決に向けての経過

社労党の旧綱領には、その法則として、「社会主義のもとでは、すべての労働可能な成人が労働に従事し、かつ各人は自己の労働(時間)に応じて――必要な社会的控除ののち――分配を受けることになる(これすなわち『働かざる者、食うべからず』の原則の実行であり、一切の寄生人口の廃止である)」と明記されています。

 簡単にいえば、労働者が働いた、自分の消費と生活のための労働時間に応じて、消費手段(コメや冷蔵庫等々の消費財)の分配を受けるということで、それ自体全く正当で、当然のことですが――これは別の言葉でいえば、分配法則が「価値規定」に従ってなされるということ、つまり分配においては労働時間そのものが規定的な役割を演じるということです――、しかし、では具体的な形で、それはどういうことかということでした。我々がこの間、ずっとこの問題を議論してきました。

そもそもの始まりは、丁度四半世紀ほど前、ソ連の崩壊とソ連共産党の解体という時代的な背景の中で、共産党が、ソ連の崩壊の原因はマルクス主義の教条的な適用にあり、市場経済を無視したスターリンの責任だといったことをまことしやかに′セいはやし、社会主義は市場経済でもあり、したがってまた社会主義における分配法則も市場経済の法則に従って資本主義と同様に、つまり賃労働の形のままでなされる以外ないといった俗説を盛んに振りまき、それに我々が強く反発したところからでした。

 私たちは共産党の見解に強く異議を唱え、社会主義における分配法則は資本主義経済だけではなく、市場経済を止揚した形でなされるべきであり、労働時間を基準にした分配に移行していくべきで、それこそ労働者、勤労者の究極的な解放、資本主義的搾取からの解放のまさに帰結であり、核心の一つであると反撃しましたが、それが具体的にどんな形で行われるのかについて語ることができませんでした。

 その後、我々はこの問題に対する理論的な追求を進め、深めて来ましたが、その重要な画期をなしたのが、2012年の春、つまり今からちょうど5年前に行われた、我々の労働者セミナーでした。

 そこでは、この問題について本質的で、決定的に重要な概念が示され、問題の核心に迫り、それを明らかにする多くの議論が闘わされたのですが、しかしそれを単純で、明瞭な法則として示すことはできませんでした。個々の消費手段の生産のための労働時間を、その諸契機によって積み上げるといった形で考えたからでぢた。

 このセミナーの内容と議論のすべては、マルクス主義同志会の機関誌『プロメテウス』55・56号に正確かつ詳細に掲載されています。社会主義における分配はいかに行われるか、そしてその内容と意義は何かを確認し、自覚するためには、不可欠の必読文献で、これを抜きにして、分配法則を語ることができないほどの重要なものだといえます。我々の立場と意図は、同書の3頁から20頁にありますので、是非とも検討してほしいと思います。

法則はいかなる形で表明され得るか

 我々の到達した結論もしくは社会主義の分配法則は、さしあたり、以下のような簡明な形で表現されます。

「自然的な有機的構成――生産手段の生産に支出される労働(量)の比率と、消費手段の生産に支出される労働(量)の比率――が2対1と前提をすれば、両者に支出される労働(量)の比率は、当然2対1である。

 こうした前提のもとでは、個々の共同体の成人に対する分配法則は、以下のような単純なものとして現れる。

 すなわち生きた≠P0労働日の結果である冷蔵庫は、30労働日の労働に応じて分配され、また生きた≠P労働日の労働の結果である主食穀物(例えば、米とか麦とか)は、3労働日の労働に相応して分配される。

 なぜ10労働日の冷蔵庫に対して10労働日でなく、また1労働日の主要穀物に対して1労働日の労働でなくて、その3倍の労働かといえば、冷蔵庫や主要穀物を生産する労働には、直接にそれらを生産する労働者の労働時間だけでなく、それらを生産するための生産手段のための労働時間もまた含まれ、加えられるからである。言うまでもなく、それらの労働も、社会的な分業によって他の生産部門の労働者によって担われ、支出されたものである」

 こうした法則が成り立つためには、自然的な有機的構成がすべての生産物において等しいということも前提されるのですが、それは問題を抽象的な法則として、概念的に理解するために必要な前提であり、また資本主義の発展は、ますますその前提を実際的に、そして近似的にもたらしています。

いくつかの批判と異論

 もちろんこうした概念に対して、いくつかの異論があり、かつても、今も、それらは持ち出されています。

 その一つは、10労働日の冷蔵庫は、10労働日の労働と対価であり、主要穀物もまた同様であるといったものであり、また二つ目としては、言われている分配法則の概念だと、「自然的有機的構成が高くなればなるほど消費財の取り分が少なくなってしまう」とか、三つ目としては、「生産手段も含めて生産をすべてゼロから素手で始めるというのは原始時代にでも遡らないと不可能だ」と言ったものです。

 2番目の疑問については、すでに、「生産の有機的構成が高くなると云うことは生産力が高くなると云うことであり、わずかの労働時間でたくさんの物を生産出来るようになることを考えるなら、発言者の云う心配は解消される」という反論がなされていますので、ここでは最初と最後の見解について意見を述べておきます。

 最初の見解は、マルクスの再生産表式から出発した見解で、第T部門(生産手段の生産部門)のV(可変資本=可能的に消費手段に転換されるべきもの)とM(剰余価値=同消費手段)が、第U部門つまり消費手段の生産部門のC(不変資本=生産手段に転換されるべきもの)によって相互に置き換えられ、交換されるのだから、1対1でなくてはおかしい、といったものです。(図表参照)

 しかしこれは二つのことを混同した誤解のようなものです。再生産のための第T部門の一部と第U部門の一部の相互移転は、それ自体、個々人への分配法則とは何の関係もなく、社会的な総生産とその継続のための第T部門と第U部門間の生産物の相互的置換の問題です。

 むしろ、第T部門の消費手段部分(VとM)に匹敵する部分が、第T部門に支出された労働の3分の1であること、したがってまたその比率が、第U部門の消費手段の生産に支出される部分(VとMの和)の、消費手段の全体に支出された労働に対する比率と同じ3分の1であることに注目すべきです。

 つまり再生産表式によって議論するなら、両部門の、消費手段の生産に支出された労働量は、当然、それぞれの部門に支出された労働の3分の1である、ということが重要なのです。

 そしてこの事実こそ、「10労働日の結果である冷蔵庫は、30労働日の労働に応じて分配され、また1労働日の労働の結果である主食穀物(例えば、米とか麦とか)は、3労働日の労働に相応して分配される」という命題を確証しているのです。

 そしてまた、最後の疑問について言えば、我々は発展した資本主義社会を前提として、再生産を考察しているのですから、つまり第T部門でも第U部門でも、それぞれ生産手段と労働力(それはまた消費手段ということですが)を前提として再生産を開始するのですから、何もない、原始時代から始める云々は無用で無意味な心配というしかありません。むしろ、そんなことを心配する人々こそ、どんな前提から出発するというのでしょうか。

 そして社会は総労働によって、出発時の生産手段、消費手段を再生産するのですが、それはまさに社会的な分業として行われるのであって、生産手段が先で、消費手段が後だといった前後関係ではなく、同時並行的な分業関係として位置づけられなくてはならないし、また現実でもそうなっているのです。

価値法則そのものもより深い地点から基礎づける

 我々は『資本論』の冒頭で、労働価値説を学びます。そして商品の「価値」、その実体は、その商品に「対象化」された、人間の社会的で、抽象的な労働であることを知りました。

 しかしその商品がいわゆる単純商品でなくて、資本主義的商品だった場合の価値概念は、どう考えたらいいのでしょうか。

 その解答もまた、上記の「価値規定」と関連して考えればどんな疑問もなく、完璧に明らかになります。つまり資本主義的商品の価値規定は、労働者の直接の消費手段のための労働時間と、その商品を生産するための生産手段の生産のために支出された労働時間の和である、と言うことになるのです(個々の商品でも、全体の商品でも)、つまりその意味ではすでに最初から、商品価値を生産する個々人の労働は、一般的な社会的分業を前提にした、総労働の個々の一部としての、深い意味での社会的労働として現れているのです。

   
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