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マルクス主義同志会機関紙
『海つばめ』

◆隔週日曜日発行/A3版2ページ
一部50円(税込み54円)

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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
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  メールでの申し込みも可能です。

まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1288号 2016年11月6日
【一面トップ】黒田日銀の「敗北宣言」――アベノミクス破綻の始まり
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】野党共闘路線は最悪の解党主義――労働者の独自の階級的闘いの旗を高く掲げよ
【二面トップ】 朝日らが美化した崇仁――問題は天皇制そのものにある

※『海つばめ』PDF版見本

黒田日銀の「敗北宣言」
アベノミクス破綻の始まり

 黒田がついに、自らの「異次元の金融緩和」政策の失敗と敗北を事実上宣言した。4年ほど前、安倍の指名によって、アベノミクス実現のために日銀総裁の任についた黒田は自信満々、2年間で日本経済の宿痾であるデフレ≠ネるものを克服して2%の物価上昇を、つまりインフレをもたらし、その結果として「経済の好循環」を可能にし、経済の繁栄はもちろん、経済成長≠竍財政再建≠烽ワた実現すると、安倍と共に大見得を切ったのであった。しかし今、5回にわって、2年という期限を延長させた結果、デフレの根が余りに深く、自分の「金融緩和」によっては如何ともし難いと白旗をあげたのである。そして黒田の敗北と降参は、同時に安倍の挫折と投降であること、安倍もまた黒田の後を追うしかないこともまた明らかであろう。

 2年で2%の物価上昇を約束しておいて、その実現を5回も先延ばししても実現できなかったのだから、さすがの黒田も自らの失敗を認めざるを得なかった。

 しかしもちろん黒田の敗北は直接に安倍の敗北であり、敗北につながって行くしかない。

 そもそも日本経済をデフレと規定し、従ってインフレをもたらすことで経済の繁栄や財政再建が可能になるかに言いはやしたのは、リフレ派と呼ばれる、ケインズ学派の一亜流の少数の学者たち――少なくとも日本においては――であったが、そんな俗説に安倍が経済の起死回生の野望を託すことによって、アベノミクスや日銀の「異次元の」金融緩和なるものが――すでに4年にわたって実行されてきたのである。

 安倍はことさらに安倍政権以前はデフレの支配する陰鬱な℃ミ会であった、しかしアベノミクスによって、たちまちそんな社会の「暗く重い空気を一変した」かに言いはやすのだが、しかし、非正規労働者――その多くが身分保障もなく、低賃金、飢餓賃金で働く労働者、とりわけ女性労働者、片親§J働者――が4割も存在し、また増えつつある現実を見れば、安倍政権が労働者、勤労者に希望に満ちた、幸せな時代を約束したなどと言うのが、どんなにとんまな独りよがりであるかは明らかである。

 しかしこの4年間の経験は、リフレ派経済学の理論やアベノミクスが全くの愚劣な観念論であり、幻想であって、現実に適用されるとき、たちまち破綻をさらけ出し、今では百害あって一利なしであることがすっかり暴露されてしまった。

 そもそも物価下落が悪で、物価上昇が――しかも厳密に≠Q%のインフレが――善であるなどというのは、観念的ドグマの最たるものであって、労働者、勤労者は一般商品の物価下落によって利益こそ受けることは多々あり得ても、損害を被ることは基本的にはないし、あり得ない(これはご立派な経済理論≠ニいうより、まるで常識程度の、あるいは小学生程度の知恵や判断力の問題である)。

 黒田やリフレ派や安倍一派は、物価上昇が失敗した理由として、石油価格の下落に言及したり、賃上げが不十分だったとか言いはやすのだが、そんな弁解やごまかしの理屈が通用するはずもないのである。

 しかも彼等は、物価下落は悪だと叫びながら、石油価格の低落を慢性的経済停滞や衰退に苦しむ企業の、ブルジョアたちの救いの神であるかに評価したのだから矛盾もいいところである。石油価格の下落がブルジョアたちにとって――そして消費者である労働者、勤労者にとっても――恩恵であったというなら、他の多くの商品の価格低下もまた同様であって、なぜ物価上昇が――上昇だけが――、国民全体の利益と言うことになるのか。ブルジョアたちの経済学≠ヘまるで第一歩から首尾一貫性を欠き、混乱し、矛盾している。

 賃上げ不十分説に至っては、まるでピント外れで、ばかげている。労働者の賃上げはブルジョアたち自身の抵抗や消極性――それどころか、アレルギー――によって妨げられたのであって、このこと自体、ブルジョア自身が、賃上げで好景気や経済再建などという幻想を全く持っていないことを教えているのである。

 グローバルな°K模での競争が激化する中で、ブルジョアたちが、コスト≠引き上げ、競争力を弱める賃上げに安易に賛成する――できる――はずもないのである。安倍一派や黒田とは(そして共産党とは)、何というとんまな連中であろうか。彼等がブルジョア陣営からも、御用済みとして捨てられる日も決して遠い先のことではないかもしれない。

 消費増税については、3%くらいのものはアベノミクスの勢いの前では少しも重大ではない、財政再建も平行して行うのだと豪語して、14年には消費増税に走りながら、それ以降、2度にわたって消費増税を延期したばかりではない、最初の消費増税こそが日銀の金融緩和政策を挫折させた原因であるかに言いはやし始める等、彼等は厚かましい弁解と泣き言に終始している。

 商品の価格が、生産性の上昇と共に、つまりその商品を生産する社会的な労働の減少とともに低落していくのは当然であり、社会の進化の――人々の福祉と幸福の増大の――一つの現れであり、契機ではあり得ても、社会的な害悪であるはずもないのである。

 金融緩和でカネをばらまけば、財政再建も可能だと安倍等はわめき散らしたが、今ではそれも空しい、そして虚偽の空文句であることが暴露されている。カネは山ほどばらまかれたが――あるいは、まさにそれ故に――、財政危機は一層深化し、国家の事実上の破産はますます手に負えないものになって(1000兆円の国家債務は余りに巨大で、返済することなど不可能であるが故に、安倍政権も政治家たちも、そんな危機は存在しないかに振る舞っている)、いったん利子率の高騰する時がやってくれば、たちまち隠されている破産国家の現実が暴露され、国民生活は一気に破壊され、破綻していくし、行かざるを得ないのである。

 安倍がばかげているのは、国が輪転機をフルスピードで回転させてカネをばらまけば、そのカネがいくらでも流通して経済を活性化させ、富を生み出す、という仮定の話、神話を信奉していることである。

 しかし日銀がいくら日銀券をバラまいても、それはブルジョアが投資したり、労働者、勤労者が消費を拡大することとは決して同じではない。こうした単純な真実さえ確認できないで、ドグマや錯誤や幻想から出発するだけなら、アベノミクスも「異次元の」金融緩和も決して成功しないのであり、できないのである。

 カネを無制限にバラまけばすてきな経済社会が生まれるとか、マイナス金利といった経済法則≠ノ反した政策をやればむしろ経済が活気づくとか、生産もなく、あるいは供給もないのに――そうした社会の一番重要な側面を切り捨て、脇に置いて――、消費や需要を膨らませれば経済の全てがうまく動いていくとか、寄生的あるいは非生産的産業≠ナも何でもとにかく膨らませれば経済成長≠熬B成され、国民(国内)総生産も増えて万々歳だとか、バブル経済で税金を増やせば財政再建も容易だとか、国家に財源がなければ――なくても――借金をいくらでもやれば問題は簡単に解決するとか、最近の経済学≠竏タ倍政権の経済政策≠フ下品で、野蛮で、卑しいことはどうだろう。まさに寄生階級のイデオロギーの花盛りである。

 バラまきで経済成長、そしてその結果としての増税、財政再建といった展望も幻想でしかないことが明らかになっている。今では国家支出の再膨張が始まっていることからも明らかなように、バラまきによる財政再建どころか、バラまきによる経済の衰退や寄生化、その結果としての財政破綻がやって来ようとしている。

 結局、安倍政権や黒田日銀のやったことは、金融緩和がすでにギリギリのところまで行われ、また財政膨張が限界のところにまで来ている国家社会の中で、さらに「異次元の」、つまり異常で、限度のない金融緩和をやろうとしたことであり、また財政膨張重視にも回帰したということである。

 安倍は黒田が、金融緩和がボロを出し、ギブアップする前に、巧妙にも再び路線転換を策動し、財政膨張重視に“先祖返り”しつつある。彼は先進国サミットでは、路線転換を正当化するために、世界経済がリーマンショック並の危機≠ノあると大騒ぎしたが――もちろん安倍は世界の首脳の中で浮くしかなかった――、しかしそもそも「異次元の」金融緩和に賭けたのは、財政膨張政策が国家借款100兆円を越えて、もはや財政膨張路線に依存することができないから、ということであった。

 安倍は今なお厚かましくも、「アベノミクスはまだ道半ばだが、十分成果も上げている、この道しかない、アベノミクスのエンジンを最大限に吹かす」などと叫んでいる

 冗談ではない。「異次元の」金融緩和だけでもすでにその行き詰まりや有害性や破滅性は十分に明らかである、そこに財政膨張の「エンジンを最大限ふかす」とはどういうことか。今でさえ金融緩和によって、経済財政の破綻や高金利の到来や金融の崩壊や、あるいは急速に進むインフレの火種は十分にバラまかれ、火がつけば一挙に爆発し、あるいは燃え上がりかねない状況にあるのである。

 そもそも一時の効果に溺れて、麻薬のような政策を、カンフル剤以上になり得ない、その場限りの政策を多用したり、「最大限に吹か」せばどうなるのか、安倍には全く分かっていないのである。

 そしてそれから4年がたって、労働者、勤労者の批判的観念が全く正当であり、ブルジョアたちが知的に全く頽廃し、単なる暗愚の徒輩に転落していることが暴露されてしまった。

 2%のインフレと言ったものの絶対化自体ナンセンスでばかげたものであるが、その「早期実現のためにできることはなんでもやる」ということは、しかもそんな愚劣なことを実行に移すなら、一体どういうことが起こるであろうか。

 彼等のやってきたことは、「異次元の」規模でカネをバラまき、見かけの好況を演出することだけであり、それが行き詰まる兆しが現れれば、さらに「異次元の」金融緩和等々に走ること、つまり「サプライズ」を繰り返し、いくらかでも長続きする幻想を願うことだけであった。

 国家金融機関が日銀券を、つまりお札をただで印刷し、年々国債を80兆円も購入し、加えて上場投資信託を6兆円も買いだめすることが何を意味するかを確認せず、知らなかったというなら、安倍も黒田も近い将来、その無責任と無知と利己主義によって経済の危機や破綻や停滞をもたらした罪で告発され、その巨大な国家的規模の犯罪を償わなくてはならない。その罪が、軍国主義やファシズムに走り、15年戦争を戦った軍部や天皇一家の罪に劣るかどうかは匹敵するかどうかは何ともいえないにしても、である。

   

【飛耳長目】

★安倍政権がユネスコ(国連教育科学文化機関)への今年の分担金、約44億円の支払いを保留している。理由は、中国が申請した「南京大虐殺の記録」をユネスコが世界記憶遺産に登録したからだという★その中には、客観的な資料といえる、写真や日記も含まれるという。単なる「記憶遺産」の登録を恐れ、それに反発して、分担金を出さないなど常軌を逸している。独善と傲岸と下劣さもここに極まれりか★安倍政権や反動は南京虐殺の犠牲者の数が30万人は誇張だと大騒ぎしてきたが、さらに数字の問題を、虐殺自体が「なかった」といった議論にすり替えてきた★1937年暮、苦戦のすえ南京を陥落させた際、日本軍による中国人の大虐殺が発生したが、それは単に南京の問題に留まらず、日中戦争の拡大と激化の中で日本が広汎に行った残虐行為の象徴として大きな歴史的意味を持ったのであって、30万か、10万かといった数字の問題ではない★日本の帝国主義的侵略や他民族を力で(軍事力で)従属させ、植民地化しようという狂暴な行為の問題、ブルジョアや反動や軍部の行う戦争の非人間性と野蛮と差別意識等々の問題である★それにしても、帝国主義的侵略の罪を隠そうとして――事実は消せるものでは決してない――、カネにものをいわせて=A相手を屈服させようとするいやらしさ、下品さは安倍政権や反動派の専売特許だ。(鵬)

   
   

【主張】

野党共闘路線は最悪の解党主義
労働者の独自の階級的闘いの旗を高く掲げよ

 衆院補選で野党共闘はうまく機能しなかったと、志位が切歯扼腕している。

 来るべき総選挙で、野党共闘によって議席数を増やそうと打算する志位には、野党共闘はどうしても軌道に乗ってくれなくては困る課題である。

 うまくいかない原因は、志位に言わせると共産党にでなく、民進党にある。

 そもそも民進党は共闘を公党♀ヤの相互信頼に基づく、「互いに信頼し、互いに敬意を持ち、互いに譲るところは譲って、心を一つにして闘う」ものと考えられていない。そうでなくては、共闘は「本当に力を発揮できない」のである。

 衆院補選の東京や福岡で野党≠ェ――野党にも色々あろうというものだ――、自民党に惨敗したのは、野党共闘にこの「相互協力、相互支援」のうるわしい精神がなかったから、つまり「本来の」、あるいは「本気の」共闘が作られなかったからであり、その責任はあげて民進党にあるというのである、云々。

 民進党は、「本格的な」共闘とは民共を軸とした、野党間の信頼や共通の立場や敬愛や遜譲のうるわしい精神で満ち満ちた、強固なものであるべきことを知らないのである。

 民進党は連合に気を遣い、自民党にさえ媚びながら、共産党にも色気をちらつかせるような、二兎を追い、共産党をただ一方的に利用するといった、信義にもとる、失礼で、便宜的なやり方を採用していると、志位の不満やいらだちは大きくなるばかりである。

 彼は衆院選では一方的なギブのやり方は止めると力み、蓮舫にギブ・アンド・テイクの関係、対等互恵の関係を迫るのである。

 しかしもし民進党が一貫した労働者、勤労者の党でなく、ブルジョアと労働者、勤労者の間で動揺する、半ブルジョア政党だとするなら、そんな性格を本性とする政党だとするなら、つまり民進党が自民党に媚びたり、連合と結託したりするのは単なる政策的な誤り≠ニか、錯誤≠ニいったものでなく、一つの階級的必然性であるとするなら、そんな政党との協調を謳うことは、労働者、勤労者の闘いの原則をねじ曲げるものであり、結局は原則的な闘いの解体や解消に行き着くのである。これまでもそうだったし、今後も同じである。

 本当の信頼も敬意も抱けない日和見主義の党、いつ労働者、勤労者を裏切るかも分からない半ブルジョア党を信用せよと勧める志位は反動的であり、労働者の友を装った敵であって、一瞬といえども信頼してはならない、民進党などの半ブル政党と共に、歴史のゴミために追いやらなくてはならない。

 志位は民進党を共産党の立場に従わせようとしているかに装うが、綱領的立場を犠牲にし、投げ捨てていることからも明らかなように、実際には、民進党の立場にまで後退し、降りて行く、民進追随主義にすぎない。

 共産党は今では、資本の支配のままでもいい、ただその民主的♂良を目指すだけだ、日米安保も自衛隊も天皇制もみな認めると公言する党である。

 志位は結局共産党の独自の階級的で、原則的な闘いを投げ捨て、民進党の立場に追随し、融合することによって党とその独自の、闘いを解体、解消するのである。

 共産党の野党共闘路線とは、原則的な階級的闘いの否定やそれへの敵対であり、したがってまた最低、最悪の解党主義であって、結局ブルジョア支配への迎合や屈服や拝跪へと、階級的な裏切りへと行き着くのである。

   

朝日らが美化した崇仁
問題は天皇制そのものにある

 崇仁が亡くなった。我々は三笠宮という呼称は使わない、というのは、「宮様」といった、憲法違反――というのは憲法は、出生による国民差別を禁じているからである――といった差別用語を嫌うからである。そして天皇一家は「国民」ではなく、また姓がないのだから、崇仁と呼ぶしかないのであって、呼び捨ては失礼とかいう問題ではない。そもそも天皇家≠ノ問題があるのである。

 彼は、敗戦後には(決して何百万もの国民が無意味に死んでいった、1945年8月15日以前のことではない)、太平洋戦争や15年戦争に深い「悔恨」や「反省」の気持ちを抱き続けていたとか、日中戦争(当時の日本側の呼称、「支那事変」)に日本軍の南京総司令部の参謀として派遣されて、「皇軍」の腐敗を目の当たりに見て怒り、「反民衆は絶対不可だ」、中国の軍隊にも劣る、と叫んだとか、敗戦後には、1937、8年頃(つまり南京事件の頃、現地で)、陸軍士官学校の同期生等が、つまり陸軍の指導的な連中が、「兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突き刺させるに限る」と自慢げに豪語したことや、多数の中国人捕虜を毒ガスの生体実験に使う映画も見たことなどと証言している。

 あるいは1998年、来日した中国の江沢民に、「旧陸軍の軍官として南京に駐在し、日本軍の暴行を自分の目で見た。今に至るまで深く気がとがめている。中国の人々に謝罪したい」と述べたともいう。

 まさにこれらの、あるいはそれ以外の、崇仁の証言は余りに明らかであって、南京事件や聖なる「皇軍」の非道な行為や振る舞いは一切無かった、南京事件といったものは中国のでっち上げであり、デマだといった、安倍一派や国家主義の反動等の一切の汚い歴史の偽造発言を、正真正銘のデマゴギーを粉砕し、一掃していることを、まず言っておかなくてはならない。

 安倍一派や反動派はいかにして彼等にとって高貴で、絶対的≠ナさえある天皇一家の御言葉を無視し、あるいは否定できるのか。もしするとするなら、彼等は何という不忠の#yであり、いい加減な臣≠ナあることか。彼等の信念≠ゥらするなら、万死に値する、あるいは切腹ものではないのか。

 それとも崇仁や裕仁らはみな嘘つきで、敗戦後にあって、保身のためにでたらめばかりを並べる偽善者だ、至高の存在どころか、自分以下の俗人だとでも言うのか、言えるのか。

 そしてまた、崇仁は、歴史家として、天皇家の万世一系という神話に懐疑的であり、あるいは紀元節復活運動に批判的で、そんなものを持ち出す安倍一派や日本会議≠ノつながるようなクズ連中については、「昭和十五年に紀元二千六百年に盛大な祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。すなわち、架空の歴史を信じた人々は、また勝算なき戦争を始めた人たちでもあった」と、あからさまに、冷笑的に&カ藝春秋に書いているそうである。

 しかし「架空の歴史」について言うなら、天皇一家について書かれていること、そして今も「国家の象徴」などと憲法で謳われていることの全体が「架空」の話や歴史であって、単に万世一系や男系主義や紀元節復活だけの問題でないことを自覚しない点では、崇仁もまた天皇家の人間と同じ穴の狢(むじな)であって、例えば彼等の戦争犯罪≠フ大きさは、朝日新聞らが国民を十五年戦争に駆り立てた犯罪性、国民≠ニ共にではなく、帝国主義戦争に走った軍部や反動と共にあった犯罪性が、朝日の自由主義的′X向――戦争中は全く隠され、後景に退いていた、というより、全く存在していなかった――によって免罪されないのと同様である、否、天皇一家の罪は、朝日の罪より大きいことは言うまでもないことである。

 そもそも朝日は敗戦後、少なくとも15年戦争中の言動を深く′繪し、反省し、二度と繰り返すべきではないと誓ったが――しかし今また、朝日は体制べったりの傾向を強めていないか、そして朝日のそんな最近の傾向は、例えば天皇制についての擁護的言動や報道が、まさに1945年までの報道にますます近づいているところに象徴されていないのか――、他方天皇一族の方は、戦争中の「(国民とではなく)軍部とともにあった」ことについては口を閉ざし、完璧にほおかむりして一言も反省していないのである。

 問題は、天皇制そのものが、軍部やブルジョアや反動等の、帝国主義戦争、侵略戦争の旗印になり、国家主義や愛国主義をあおり、専制体制を確立し、国民を盲目化し、反動戦争へと動員し、駆り立て、死においやる決定的な道具となったということであって、崇仁ら個々の皇族が(あるいは天皇が)心の中で≠ヌう考えていたかということではない。

 天皇制のありがたい御利益≠竍効能≠ヘ今でもそのままであり、だからこそ今、反動派や安倍一派は再び、天皇制をどんな機会も逃さず持ち上げ、天皇制の神格化や神聖化に狂奔するのであり、し始めるのである。

 崇仁もまた、敗戦後、皇室離脱を勧められたというが、裕仁(昭和天皇)と同様、それを回避している(ただ彼は敗戦時、裕仁に責任をとって退位することを主張しているが、その動機はせいぜい天皇制の護持、「国体」の護持のためでしかなかったことは明らかであろう)。

 崇仁の人生や生き方はある意味で、自由主義者の人生や生き方と同じである、天皇一家の生き方は、典型的なリベラル派のそれである、あるいはリベラルの生き方はまた天皇一家のそれでもあって、裕仁であろうと、宣仁(高松宮と呼ばれ、典型的な自由主義的皇族の一人に数えられている)や崇仁であろうと、濃淡の違いや厚顔無恥の多少の違いがあろうとも共通である。

 天皇一家の一部はみな畏れ多くも自由主義的≠ナあらせられ、それ故に、筋金入りの%V皇制主義者たち、ファシストたちをしばしば幻滅、失望させ、あるいは時には反発や、恨みや憎しみさえも買ったのである(天皇一家がもっとも恐れた連中の中に、軍部の一部やファシストらの真性≠フ天皇制主義者が含まれたことほどの皮肉や茶番はないが、これもまた、天皇制の本性を鋭く暴露している)。

 15年にもわたる日本のブルジョアや軍部のアジア太平洋戦争(帝国主義戦争)の間、彼の一部はそんな現実に、部分的に#癆サ的であり、あるいは否定的であった――もちろん他の一部の皇族は十分に帝国主義的、好戦的≠ナあり、積極的に軍部と協力した――、しかしそれは彼らが天皇家としては、全体としては、最初から最後まで、「国民と共に」、労働者、勤労者と共にではなく、軍部や好戦的なブルジョアたちと共に――あるいは、その先頭にさえ立って――、国民を鼓舞し、叱咤激励して反動戦争に駆り立て、国体のために、天皇一家と天皇のために死ねと叫んだことは余りに明白な事実であった(彼等は、国民に「自分たちのために死ね」と直接言ったことはないと今さら弁解するかもしれないが、軍部や政府がそう叫ぶのに、自ら進んで何一つ抗議せず、野放しにしたのだから同じことである)。

 そもそも崇仁が本当に「反省」したというなら、なぜ、天皇制の廃止を主張しなかったのか、少なくとも自ら皇室の一員という地位を放棄しなかったのか。軍部の「大御心」にそわない行動に批判はしたが、そんな残虐行為≠ノ対する、天皇制自身や、さらには帝国主義戦争の指導的な担い手、つまり支那派遣軍の参謀として参加した自らに対する「反省」や「悔恨」は全く見られないのである。中国人の虐殺に、天皇制も自分も責任があるという観念も反省も皆無である。

 敗戦後、天皇も天皇一家も、あの戦争には自分の責任は何もない、自分は内心では″ナ初から最後まで一貫して反対であり、批判的だったかに装ったが、それは多くの自由主義者やマスコミがそうであったのと同様である。

 「一億総懺悔」でもって、軍部や東条らの政府と共にあった天皇も、自由主義者も、労働者、勤労者も、つまり国民≠ニして十把一絡げされたみんなが反省し、総括したことにされ、みんなが悪かった、間違ったのだ、それで終わりということになったのである、つまり軍部や反動天皇一家や帝国主義者や軍国主義者も、心ならずも≠P5年戦争に協力し、それを先導さえした自由主義者も、何千万の労働者、勤労者も同罪だったというわけである。

 そして日本の支配層の罪は、日本の労働者、勤労者によって断罪されることもなく、アメリカの占領軍によって、アメリカの許容できる範囲内で、アメリカの利益になるような形で、中途半端に、あいまいに告発され、暴露され、したがって温存されたのだが、それを象徴するものこそ――資本制の存続という根底的なことを別とすれば――、東京裁判であり、また天皇の無罪宣言と天皇制の延命であった。

 今また、明仁の生前退位要求と共に、天皇制とは何かが問われている。

 安倍政権は、問題がそこにまで進み、深まることを恐れ、「触らぬ神に祟りなし」とばかりに、憲法や皇室典範などには手を付けることなく、明仁個人の問題として、便宜的な「特別措置法」によってこの困難な問題をパスし、処理しようと策動している。

 もちろん我々はそんな姑息な策動を許してはならない。

 もちろんこの問題は、いくらかでも真剣に議論しようとするなら、天皇制の時代錯誤や矛盾に、その有害性や反動性に、つまり天皇制の廃絶という問題に行き着くのであって、我々はただこうした観点からのみ、この問題に接近し、論じなければならないのである。

 今こそ無条件で、直ちに天皇制を廃絶し、一掃せよ

 そしてそのための憲法改定に、労働者、勤労者は大賛成であって、押しつけ憲法=\―つまり敗戦時、労働者、勤労者が自らの闘いによって勝ち取ったものでも何でもない、という意味での――を絶対化する、愚昧で狭量の野党や市民派と、労働者、勤労者は一線を画するのである。

   
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