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マルクス主義同志会機関紙
『海つばめ』

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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
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まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1283号 2016年8月28日
【一面トップ】シールズは保守主義の個人主義者――引き回された野党は余りに幼稚で低俗
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】安保法は今や実行段階に――プチブル党の無力な反発よそに
【二面トップ】究極のバラまき政治だ――BI制度は市民派の最悪の幻想
【労働者の闘いから、我々の闘いから】民共共闘しても勝てるはずはない――第2自民党の民進、第2民進党の共産

※『海つばめ』PDF版見本

シールズは保守主義の個人主義者
引き回された野党は余りに幼稚で低俗

 シールズが解散した。解散するのは彼らの勝手だが、無責任のそしりは免れない、というのは、彼等の奨めた野党共闘によって、それを一つのきっかけとして、むしろ野党勢力は後退し、憲法改定を国民に提起できる、国会(参議院)における3分の2を超える、保守派、反動派の議席獲得を可能にし、助けたからである。安倍政権に対する、アベノミクスや軍国主義路線に対する、一貫した、毅然とした闘いを貫徹することなしに、安倍を追い落とし、闘いの道を切り開いていくことはできなかったのである。

 シールズの諸君の発言を追いながら、彼らは何者であったのか、そしてどんな階級や階層の立場から発言したのか、彼らの立場は“改革”を目ざし、前進的、進歩的であったのか、それとも保守的で、現状維持的であったのかを検討してみよう。シールズの幹部はしばしば以下のように語っていた。

「僕たちは何も変革を起こしたいんじゃない。自由に生きたいだけです。今まで通りの平和な日本を守りたいだけなんです」

 こうした発言は余りに明白であり、決定的である。こうした発言が学生によってなされたのは必然であり、まさに「学生」という身分階層の本性を暴露している。

 というのは、日々資本のもとで困難な“強制労働”――それが経済的な手段による強制労働であるか、直接の強制労働によるものであるかは問わないとしても、明白な一種の“強制労働”――に駆り立てられ、しかもギリギリの生活で生きるような地位に追い込まれている、何十、何百万の労働者、勤労者の発言でないことは一目瞭然だからである。

 労働者、勤労者は決して、デモに参加しつつも、「何も変革を起こしたいわけではない」とは言わないだろうし、また「自由に生きたいだけ」とも、「今まで通りの平和な日本を守りたいだけなんです」とは言わないだろうからである。

 労働者にとっては、資本の支配する現実社会は、少しも「自由」でも「平和」でもないこと、日々「不自由の」なかでの、生活と人生のための絶えざる「戦争」のちまたであることは余りに明白である。

 そんな資本の支配する社会が、いかにして、根底的に「自由」で「平和」な社会であるのか、あり得るというのか。

 また彼らのやっていることや実践や行動は、最初から言っていることや主張と根本から齟齬を来たし、矛盾していた。例えば、安倍さくらは次のように語っていた。

「当たり前と思っていた平和、自由は、実は簡単に壊れていってしまうもの。それは自らの手で作り、守らなくてはならないと気づいたとき、人任せにすることを止めて、自分自身で担うことが必要と考えた」 

 寺田ともかも、「私たちが伝えたかったのは、誰かに期待するのではなく、個人が行動すると言うこと、とても長い闘いになると思う。私たちにできることを個人として続けていく」と同じように語っている。

 彼らが「人任せにすることを止めて、自分自身で担うことが必要と考えた」とか、「誰かに期待するのではなく、個人が行動する」とかいったことは、戦争反対を叫んだ15年秋の国会デモのことについて言っているのか、16年夏の参院選における野党共闘のための活動とか、野党共闘候補つまり民進党等々の候補への応援について言っているのかは知らないが、いずれにせよ、民共や民共の候補者に対して働きかけ、そんな政党や議員たちに期待し、「任せて」の活動であったということ、つまり「自分自身で担うことが必要と考えた」とか、「誰かに期待するのではなく」とかいったこととは、まさに“真逆の”行動であったこともまた一目瞭然であった。

 民共など信じ、そんなインチキ政党に「任せて」おいて、「人任せにするのを止めた」も「誰かに期待するのではなく」も何もないのである。民共に「任せる」など、最低、最悪の「人任せ」であり、「期待する」ことではないのか。

 浦田沙緒音も負けずに言う。

「誰かが動いてくれるのを待つのは違うなと思った。これからも活動を続ける」

 もちろん、「これからも活動を続ける」という決心にけちをつける気持ちは毛頭ないが、一体どんな活動について言っているのか。

 「一人一人が発信し、行動して行かなければ、今の状況は変わらない」と言うが、それはいいとして、一人としての一人の発信や行動は意味をなさないからこそ、シールズはシールズとして、つまり組織として、団体として発信し、行動したのではないのか、そうしたからこそ、はじめていくらかでも社会的な反響を呼び、いくらかでも影響を持ったのではないのか。シールズとして発信するのを止めて、単なる「一人」として、つまり単なる個人として発信し、行動するなどといっても現実的な力も影響力も何も持たないこと、持ちえないこともまた明らかではないのか。

 そしてまた、何を意味するのかさえもはっきりしない「市民」としての個人は無力であると自覚し、反省したからこそ、小林節は市民を代表し、その結集点を求めて、自ら市民派の政党を組織、参院選に打って出たのだが、市民派や市民団体は極めて冷淡であって、野党共闘候補の応援や支援には熱心ではあったが、小林の闘いにはそっぽを向き、事実上見殺しにした。

 これは市民派運動の一大矛盾であり、破綻であり、あえて言えば自殺行為でさえあった。自殺行為とは、小林が市民派の政党を組織して立候補したこと自体をいうのか――市民派の政党の組織とは、彼らの個人主義的プリンシプルに根本的に反しないのか、矛盾そのものではないのか――、それとも、市民派が市民派候補にそっぽを向き、事実上彼らが嫌悪し、軽蔑さえする民共という“政党”の、つまりあえて言わせてもらえば、最低、最悪の“政治組織”の候補者の応援に熱中するという茶番を演じたことを指すのか、それともその双方であったかは言わないとしても、である。

 結局、市民主義者とか市民派といった個人主義者たちは実際の政治に乗り出し、野党に忠告し、彼らに影響を与え、彼らを“正しい”方向に導いているといった、安直なうぬぼれと思い上がりと幻想にふけったが、客観的には(現実政治の中では)、民共の政治に追随し、その無力な尻尾となり、せいぜいどうでもいい応援団の役割以上を演じることしかできなかったのである。彼らの“政綱”が共産党などのプチブル党と全く同じであり、抽象的な「平和」とか「民主主義」とか「自由」とかいった、単なる言葉に、言葉だけに留まったのも決して偶然ではない。

 小林の立候補は総じて、市民派には評判がよくなかった。少なくとも、市民派の総力を挙げて、市民派の議員を生み出そうという熱気も意思も実践も見られなかった。

 ある市民派の知人は、今回の参院選の結果に痛く失望し、絶望さえしたのだが――この市民派はなぜか民進党は第2自民党であると“一刀両断”で切って捨てながら、いまだに安倍政権と闘うためには共産党に頼るしかないというのだから、混沌と矛盾そのものである――、そんな信頼すべき共産党がせっせと、第2自民の民進党のために犬馬の労をおとりになっていらっしゃる事実に対して、全く盲目であり、無批判的であるのはどういうことか、健全な判断力を失ってしまったのであろうか。

 この市民派は、小林の立候補について、あの人は学者としては立派で、いい仕事をしてきたが――もちろん、そんなことは決してないのだが――、そんな自分の分を超えて選挙などに出るからいけないのだと評論し、自分の小林への冷淡と共産党への応援を正当化したが、市民派として少しも一貫しないことを自覚していない。そもそもスターリン主義の汚物にまみれ、官僚主義や権威主義で悪臭芬々の腐敗政党が、なぜ市民派のお気に入りなのか。市民派は人(政党)を見る眼が全くないと結論するしかない。

 シールズの連中は自らが破産したのを自覚してか、しなくてか、あれこれのうぬぼれや自己満足、そして自己慰撫にふけっている。

 奥田愛基はいう。「これまでの政治や社会運動は、伝える能力がものすごく取り残されていた。が今の政治には欠けている」と、大層偉そうな口を利いたが、北海道の補欠選挙の応援に入った後は、選挙結果に驚き、影響が数字になって出るのにびっくり仰天し――つまり、自分たちの訴えが、数字として出てこないのに驚き――、自分たちの「戦争反対」のデモが広汎な労働者、勤労者大衆の心とは遊離していたことを認めざるを得なかった、つまり自分たちこそ観念的であって、「受け取る側を考えながら伝える想像力」が自分たちにも「欠けている」ことにようやく気がついたが、それでも、自分たちの「政治」が共産党などと同じ程度のブチブル観念主義と不可分であったことに気がついていないのである。

 また山本雅昭は、「今までの選挙は政党や政治家や政党が作り、争点も政治家に決められていた。今回市民が声を上げて生まれた争点があり、勝たせたい候補のために市民が動いた」と意味不明なことを言っているが、彼のいう「市民が声を上げて生まれた争点」とは一体何のことであろうか。

 牛田悦正は「市民の政治参加が当たり前の文化を作ろうと活動してきた。これからは日本人一人一人が始めてほしい」、「市民の政治参加を当たり前にすることは、今始まったばかり。シールズが終わっても、それを担っていくのは、僕らもそうだけど、あなたたち一人一人であり、みんなが始めるべきである」とも主張するが、「市民」とは誰か、いかなる社会的な概念規定かが明らかにされないなら、何の意味もない空文句であり、気楽な学生のひとりごとを出ない。

 民進党はともかく、志位は野党共闘をさらに発展させ、来るべき衆院選を政権選択選挙にまで貫徹していくと大張り切りである。

 志位のとんまさ加減はさておくとして、志位と共に二人三脚で野党共闘のために奮闘したシールズは、野党共闘に責任を持つのであって、最低限、参院選におけるその意義や成果についてきちんと総括し、今後は実践的にどう関わりを持つのかを明らかにする義務を負っている(もし無責任シールズの汚名を免れようとするなら、ではあるが)。解散して済むことではない。

 自由主義的マスコミは、「組織に属さない個々の市民」といったものを美化して止まないが(朝日、22日の社説)、一体そんな「市民」を概念規定できるのか、さっそくしてみてから、全ての責任ある発言を始めるべきではないのか。

   

【飛耳長目】

★相模原事件がいまだ人々の心にわだかまっている。その行為や動機をいかに理解していいか分からないからだ。自由主義的世論も単なる異常な人間の、異常な行動としてすますことができないことを予感する★しかし彼らは容疑者の行動を「障害者の命と尊厳をないがしろにした過去の思想と政策」を思い出させると、ナチズムの「優生思想」を持ちだしている★朝日新聞記者は、ドイツの精神病院を訪れたとき聞いた言葉を記している。「労働能力だけで人間の価値に優劣をつけ、強者だけを残そうという優生思想は、非障害者には無縁に思える。だが、高齢者、病人と、弱者捜しは連鎖する。これが優生思想の怖さだ」★しかし実際には、容疑者が「優生思想」とはほとんど関係なかったこと、ナチズムに傾倒する反動ではなく、ごく普通の青年であったことは、友人らの証言からも明らかだ。問題は、自ら生きられない高齢者を社会からいわば隔離し、貧しい青年を賃金労働者として動員し、高齢者の「介護」や世話のすべて背負わせていることにある★リベラルたちは、ここにすでに恐るべき非人間的な現実があることについて、沈黙を守っている。彼らの偽善やえせ人間主義や利己主義は余りに明らかである、というのは、彼らは肉親の介護でさえ、決して自ら引き受けようとはしないからであり、それを貧しい青年らの賃労働に押しつけるからである。(鵬)

   
   

【主張】

安保法は今や実行段階に
プチブル党の無力な反発よそに


  安倍政権が南スーダンのPKO(国連平和維持活動)に11月から派遣予定の陸上自衛隊部隊に対し、「駆けつけ警護」や「宿営地共同防衛」の訓練を始めると言い始め、プチプル党の反発を呼んでいる。

 安倍政権は安保法がすでに成立して、これまで日本のPKOの手足を縛ってきた制限が取り払われた以上、そうした準備は当然だと考えるが、共産党などはまさに戦争法の本性が示されたと大騒ぎを演じている。

 しかし安保法を前提にするなら、自衛隊の合法的な¥備活動に手も足も出ず、共産党は切歯扼腕するしかない。

 2015年の安保法の破棄と14年の集団的自衛権行使容認の「閣議決定」の解消、そしてそれを目的とした野党共闘(事実上の共産党の民進党に対する奴隷的追随、屈従)による国民連合政府の樹立という志位の当面の政治は、彼らの政治闘争を根底から規定する原理だが、今ではその無力さやピント外れは明白である。

 共産党は例によって、海外で日本人が「殺し、殺される関係」になるとか、憲法の禁じる集団的自衛権行使になるとか主張するが、説得力ゼロである。

 そもそもスーダンの内戦に対する、PKO活動をどこかの国々の軍隊が「殺す、殺される」関係だといった形で批判すること自体余りに愚劣であって、プチブル的――自国だけは、自分たちだけは海外で「殺す、殺される」関係から逃れたい、国内で安楽に、平和に暮らしたい(つまり自分たちだけよければいい)ということだから――である。

 PKOとは一言でいって、ブルジョアや帝国主義勢力の世界秩序”の維持や安定のための、彼らの国際的課題の一つであって、それは例えば国内で警察権力がそれを担っているのと同様である。

 そうした活動は歴史的に、そして社会的問題として、さらには階級闘争の中で位置づけられ、評価されるべきであって、海外で「殺し、殺される」といった、非歴史的で、扇動的な、つまりデマゴギー的な形で論じられるべきではない(こうした共産党の姿勢から、「防衛予算は人殺し予算だ」という失言”も飛び出したのだが、それを志位らが失言≠ニして否定するなら、PKO活動は「日本人が殺し、殺される」関係だという、彼らの主張や観念の根底もまた否定されなければ決して首尾一貫しない)。

 スーダン国家が分裂し、無政府主義が支配し、国民が血なまぐさい内戦”を繰り返すのに対して、世界の労働者階級はそれをいかに評価するのかという問題が、客観的に提起されている。そしてそれは決してスーダンだけに留まらないことも、我々のよく知っていることである。

 資本の国家、階級国家であれ、歴史的に、あるいはある場合には進歩的であり、国家の消失状態や無政府状態より労働者人民にとって利益で、好ましいことも容易に確認できる。

 それは、そうした「安定」や「平和」が、結局はブルジョア強大国や帝国主義勢力の利益である場合においてさえも、である。

 共産党は階級的で、原則的な見解を、最も卑俗で、無内容な主張、プチブル的饒舌にすり替えている。

   

究極のバラまき政治だ
BI制度は市民派の最悪の幻想

 朝日新聞(22日)は一部でいまだ流行するらしい「ベーシックインカム」政策(BI、「基礎的収入」保障政策)という市民派の理想について論じ、それが矛盾を深める、偽善的な現行「社会保障」に代わる、理想的な”社会保障であるかに言いはやしている。勿論現行の社会保障と一長一短があるかに論じるのだが、しかし我々はブルジョア自由主義派や気楽な市民派の理想――理想の名で呼ぶのさえ恥ずかしい――について、そのナンセンスさと愚昧さと矮小さ、さらには観念性や幻想について論じなくてはならない。

 リベラルや市民派によれば、BIは生活保護などの社会保障に比べて、「給付差別につながらない」とか、「受給者の自尊心を傷つけない」とか、「雇用に無関係に給付」できるとか、生活保護では資格があっても受けない人も多くいるが、それが避けられるとか、受給者と給付側(国家機関)の双方にとって煩わしい資格検査もいらないとか、費用さえ節約できるとか、現実的、空想的な多くの利点があるというのである。

 彼らは、現在の社会保障制度には、労働者、勤労者が働いて自分の生活を成り立たせるという「前提」があるが、その前提自体が、生活困窮者にとっては大きな困難があり、彼らを追い詰めている、この「前提」自体が問題であるかに語っている。

 彼らは例えば労働者が失業した時を見よと強調するのだが、しかし資本主義のもとで労働者の大量失業が避けられず、日常茶飯事であるから、失業保険制度ではなく、BI政策に移行せよということに、どうしてなるのか。

 労働者の大量失業を不可避とする、資本主義的生産を永遠化して、問題の根底を論じよというのか。彼らは全く転倒した立場から、つまり資本主義を永遠化し、絶対的な前提として議論していないのか、そしてその結果として、どんな社会の成人も、自分と社会のために生産的労働によって消費手段を(もちろん生産手段をもだが)生産しなくても生きていけないということを忘れた迷妄、寄生階級やインテリらだけが思いつくよう迷妄から出発していないのか。

 BIの概念は、それ自体途方もないものでブルジョア社会の上に咲くあだ花以外ではない。

 それは、全ての個人に(これはつまり世帯主ではなく、ということである)、無条件に(労働能力などに無関係に、あるいは稼ごうと、稼がないとにかかわりなくということだ)、そして「普遍的に」(あまねくということだ)、一定の――生きるために「最低限の」――所得を国家が支給しようというのである。

 こんな観念を批判するのは余りに容易であって、マルクス主義的経済理論など必要ないほどである。

 例えば生産的労働者としての、「働くざるもの食うべからず」という、社会的、倫理的大前提からしても、プチブル市民派や寄生的インテリ等の観念――彼らはもっともらしく、ヒューマニストや、貧しき人々の味方面をしているのだが――途方もない愚劣さとして現れている。

 欧米の先進国”はBI観念のゆりかごであり、最近も、スイスなどを始め、この観念を実践的に適用しようとする動きも盛んであるが、もちろんそんなものが成功裏に行われているところは皆無である。

 今年6月始め、スイスでは、BI政策の導入を問う国民投票が行われたが、結果は反対77%で否決された。当時日経新聞は次のように報道していた。

「『誰もが生活の心配をせずに、自己実現に挑〔いど〕めるようになる』。推進派はBIを得ることで仕事を選びやすくなり、より生産的で創造的な労働に従事できると主張した。勤労時間が短い代わりに給料もストレスも少ない仕事を選び、家族との時間を増やす。そんな選択も可能になるということだ」(日経6月7日)

 また朝日のこんな証言もある。「導入賛成派は最低限必要な署名10万筆〔ママ〕を超える署名を集め、国民投票にこぎつけた。推進派は『貧困撲滅』などを訴え、最低限の生活を維持するための金額として、成人に対して2500スイスフラン(約27万円)、未成年に625スイスフラン(7万円弱)を毎月支給することを提案した」(6月6日)

 つまり国家が毎月、これだけのカネを全国民にただで°虚tするカネは23兆円の巨額にたっするが、もちろん国家にそんなカネをおいそれと出す余裕はない。スイスのような小国で、日本の国家予算の4分の1ほどの予算をそうそう簡単にひねり出すことは極度に難しい。

 年金基金や失業保険の制度を廃止して、そのカネを回せばいいと市民派は主張したが、しかし失業保険や年金制度を廃止して、そこから出るカネを国家支出に振り替えるということは、単純に同一視できるはずもないのである。市民派の観念論の最たるものである。

 市民派の優雅なインテリは月々30万近い、多額のただの℃入があれば、それ以外のきつい労働に従事する必要が無く、気楽に、文化的に暮らせると妄想するのだが、しかしその23兆円ものBIの財源は、つまり労働はどこに存在しているというのか。彼らの労働以外にあると彼らは想定するのだが、それもまた労働者階級の全体が負担するしかないのであり、気楽な市民派の諸君が担わない(自分たちは無関係)というなら、彼らは他の労働者、勤労者のきつい労働に期待し、事実上寄生するのだ。

 かくしてBIといった観念の階級的な性格がたちまち明らかになる。

 彼らは、技術革新がますます進み、その結果、生産過程、労働過程から多くの労働者が疎外され、失業の憂き目を見ることもますます多くなる、とするなら、BI制度はますます必要となり、有益な役割を果たすようになるといった、独りよがりの独善にふけるのだが、労働の生産性の上昇が労働者、勤労者の労働時間の縮小として現れないで、大量失業として現れるのは資本の支配の結果である。

 ここでは、資本のもとにおける失業者の必然性は、優雅な市民派の利己主義のために悪用されているだけである。

 勘違いでないとするなら、こうした観念は市民派や自由主義派の最低の俗悪さと卑俗さを暴露しているだけである。労働の生産性の上昇が労働者、勤労者の生活向上と福祉と幸福や、あるいは彼らの労働時間の短縮と余暇の増大としてでなく、その労働強化や失業や生活の悪化として現れるのは、労働が資本の支配のもと、「賃労働」として、つまり被搾取労働、被差別労働として現れるからであり、また「価値」を生産する労働として現れるからである。

 BI制度とは、市民派や社会改良派が生み出した、最悪のバラまき幻想であり、空虚な改良主義である。

   
   

【労働者の闘いから、我々の闘いから】

民共共闘しても勝てるはずはない
第2自民党の民進、第2民進党の共産

 続々と地方セミナーも開催されていますが、8月21日、東京でも中央セミナーが開かれました。テーマは、参院選における野党(民共)共闘の敗北を受け、そして民共とりわけ共産党が何か勝利したかの悪宣伝にふけっている中で、彼らの敗北の責任を問い、新しい闘いの展望について議論が闘わされました。

 セミナーの全てを報告するのは困難なので、議論の最も重要な一つについて報告したようと思います。

 それは野党共闘に関するもので、セミナーでも何回も議論されてきたものです。しかし我々は今回の参院選によって、完全に結論が出たものと考えます。

 セミナーでは2、3の参加者から、野党共闘を告発する基調報告に異議を唱え、共闘を擁護する意見が出され、議論になりました。

 共闘を擁護する代表的理由として、今は改憲勢力が多数を占めるのを阻止するこが重要だが、野党共闘だけが唯一の手段である、今回3分の2を許したとしても、ほっておけば4分の3にもなる勢いだった、「より益し」という選択こそ常に必要だ、野党共闘はそれを3分の2に留めるという意義があったとか、野党共闘は参院選でも多くの地域で前進した、これからも重要だといった見解が出されました。

 しかし民共は共に党としての本来的な闘いを投げ捨てて、場当たりの、“政局的な”政策ばかりを並べ立てました。

 岡田は安倍が消費増税の再延期を簡単に決定すると、本来は消費増税派で、野田政権当時、また財政再建と社会保障の「一体化政策」のために消費増税を決めた民進党(民主党)や岡田等は、早々に安倍に追随して(形だけは先行して)、消費増税再延期を決めてしまったのです。

 これは消費増税に賛成か反対か以前の問題、政党としての本質や闘い、在り方に対する問題で、すでにこの時点で、民進党は安倍自民党に敗北したの

 そして共産党もまた、自分らの闘いの原則、つまり共産党が政党としての自らの原則――「社会主義」の原則の放棄まで約束したに留まらず、日米安保条約や自衛隊や天皇制に対する、共産主義の党、資本の支配や自民党政治に反対する党としての原則――までも片端から棚上げし、投げ捨てて、民進党との「統一戦線」、つまり民進党に対する奴隷的屈従を最優先させました。まさに第2民進党としての卑しい本性を暴露したのです。

 民進党は民進党としての安倍政権に対する闘いを放棄し、共産党もまた共産党としての安倍政権に対する闘いを放棄し、つまり野党が、それぞれの断固たる闘いを放棄して、安倍政権を追い詰める闘いを弱め、諦め、あるいは放棄しておいて、単なる数合わせに熱中して、どうして安倍自民党を追い詰め、圧倒することができるのでしょう。「(小異ではなく)大異(つまり大義)を捨てて、大同につく」といった志位の空文句は、労働者、勤労者には単なる詭弁と原則放棄の証拠でしかありません。

 要するに民共は断固たる、原則的な闘いを放棄し、民共と市民派が大合同すれば勝てるという安直で、愚かな幻想、数合わせのお遊びで安倍政権に勝てると空想したのですが――事実上の闘いの放棄です――、そんな観念論は敗北し、安倍が憲法改定発議を可能にする、多くの議席を手にするのをたちまち許したのです。

 セミナー参加者の多くが、新しい労働者、勤労者の政党を組織し、再建して、野党共闘(民共や市民派)に代わる、本当の働く者の代表を国会に送る意義を強調し、確認したのは当然のことでした。

   
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