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マルクス主義同志会機関紙
『海つばめ』

◆隔週日曜日発行/A3版2ページ
一部50円(税込み54円)

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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
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  メールでの申し込みも可能です。

まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1282号 2016年8月14日
【一面トップ】昭仁、偽善の「お言葉」――憲法違反と彼らの特権や利益の擁護と
【1面サブ】労働者派議員を勝ちとるために――セミナーに参加し徹底的に議論しよう
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】共産党は安倍といちゃつく――自衛隊との怪しげな♀ヨ係
【二面トップ】今さら無概念と無知を暴露して――「デフレは悪いことばかりか?」

※『海つばめ』PDF版見本

昭仁、偽善の「お言葉」
憲法違反と彼らの特権や利益の擁護と

8日、天皇は自らに関する「生前退位」の問題で、「お言葉」なるものを発表した。宮内庁の役人の言葉か、安倍政権の閣僚の誰かの入れ知恵かは知らないが、天皇の生の言葉とは到底思われない文章も、いくつも散見される。そしてもし、すべてが天皇の言葉そのものであるとするなら、天皇は何重の意味で憲法違反の罪を問われ、糺弾されなくてはならない、というのは、天皇のこうした発言は必然的に「政治的発言」であり、あるいはその契機を持つのであって、天皇にそうした言動を厳しく禁じ、単なる「象徴」の地位に留まらなくてはならないという、憲法の規定に背くからである。

 まず確認されなくてはならないことは、天皇は、現行の天皇制については「具体的に」触れないといいながら、「生前退位」という、まさに天皇制の根幹に触れるような問題に「個人的に」口を差し挟み、「象徴」天皇として許されざる行為に出ていることである。

 明仁の言っていることは、余りに明瞭な「政治的発言」である。

「天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為に限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます、云々。

 天皇は事実上、実際上、皇室典範の改正という問題を提起しているが、それが政治的課題以外の何ものでもない。現に、すでに政府の中でも、世論によっても、天皇の提起した問題は、皇室典範の改正によってやるのか、それとも現天皇だけにかかわる「特例法」によってやるのかという、優れて“政治的な”課題として取り上げられ、論じられ始めているのであって、天皇が皇室典範の改正といった問題や、「摂政」を置いたらいいのか悪いのかといった問題にまで“深入りし”、口を差し挟んでいいわけがないのである。

 「生前退位」を希望する理由は、加齢と共に、「象徴」天皇としての「務め」が果たせなくなってきたからだというが、しかしこうした口実はインチキもしくは虚偽であって、憲法で「象徴天皇」として規定されている「国事行為」を担うだけなら、それほど負担になるはずもないのである。

天皇が好んで、あるいは出しゃばって、さらには天皇一家の保身のために、政治的な意味を持つ数々の行為――太平洋戦争時代の玉砕地や大震災の被害地への「慰霊の旅」とか、「皇室外交」とか、「国民的行事」に迷惑も顧みずのこのこと出かけていく等々――をやるから、高齢の天皇の負担が必要以上に大きくなるのであって、まずそうしたことを止めてから、負担が大きすぎるというべきであろう。

 憲法は「象徴」天皇制とは何かを「天皇が個人として」、つまり個人の資格で考えたり、恣意的に解釈したり、そんな主観的な判断や「思い」で勝手に行動することをむしろ禁じているのである、というのは、天皇は国家の「機関」、歯車の一つ、平たくいえば道具のようなものであって、制度上、ただ支配階級や国家や政府の意のままに動くき存在と規定されているからである(「国民主権」という虚構のもとで)。

 そしてまた、仮に天皇がどう考えようが、政治家や政府が、天皇の勝手で、浅薄な思い込みによる「活動」を政治的に利用することはいくらでもあり得るのである。

 事実、そうしたことは最近もまた実際にあり得たのであって、石原慎太郎はオリンピック招致のために、天皇や天皇一族を利用しようと策動したし、権力者に成り上がった、柄の悪い民主党の小沢もまた、中国の習近平がまだ中国のトップにつく前、来日したとき、天皇を引っぱり出して、自らの外交と権力強化という政治的目的のために、憲法に規定されていない天皇の「活動」を粗野な形で悪用しようとした。

 憲法の枠外の「公的活動」なるものが、政治的行為である例を一つ引けば、太平洋戦争の激戦地などを訪れるといった天皇の「慰霊の旅」がある。

 ペリリュー島であれ、どこであれ、太平洋戦争の“激戦地”を訪れ、そこで“玉砕”し、死んだ死者を「慰霊」するということはまさに露骨な「政治的」行動であり、それ以外の何ものでもない、というのは、そうした行為は、反動的な太平洋戦争を美化し、日本の防衛のための“聖戦”であったという安倍一派らの見解を支持するも同じだからであり、安倍政権の「歴史認識」を正当化し、そんなろくでもない政権のたいこもちとなり、奉仕することと同様だからである。

 しかも天皇がそんな「行動」を行うのは破廉恥そのものである、というのは、激戦地で意思に反して地獄の反動戦争に駆り立てられて、不本意に死ななくてはならなかった、軍服を着た労働者、勤労者の青年たちは、天皇のために殺されたも同然だったからである。

 つまり何十万、何百万の国民の死に責任を負っている当の天皇らが、激戦地を訪れて「慰霊」するなどというのは途方もない偽善であり、破廉恥な開き直りであり、死者に対する最大の侮辱である。

 天皇はこんな類の「公的活動」を、国民のことを思い、国民にために「活動する」ことだと強弁するのだが、実際には天皇家の果たした犯罪行為を正当化し、美化したいだけである。

 明仁は、「国事行為」以外の「活動」によって、国民に愛され、崇拝される存在になることを期待するのだが、そんなものは天皇一家の利害に関する問題、彼らのエゴイズムに関係するだけの問題であって、労働者、勤労者に取っては何の関係もないことであり、むしろ疎ましく、迷惑で、鬱陶しいこと、腹立たしくさえあることである。

 我々は明仁らに、憲法に厳しく規定されている「国事行為」以外の「活動」をただちに、一切止めることを要求し、天皇らのそうした「活動」は再び反動や国家主義者たちの天皇利用に行き着くことを――石原や小沢の例を見ても分かるように、すでに行き着いてさえいることを――明らかにし、明仁らに明瞭に警告する。

 明仁は根底から勘違いしているのであって、彼は憲法の規定する「象徴」天皇からはみ出すのだが、その動機は「国民のため」ではなく、天皇制と天皇の正当化であり、その護持であり、永遠化かである、つまり「国民のため」と見せかけて自分たちの利益や自分たちに素敵な実入り(年々数億円にもなる、国民の税金からの収奪、つまり「内廷費」と「皇族費」である。天皇制の“維持費”つまり「宮廷費」も含めれば、その費用は数十億円にも達する。正確に言えば、16年度では65億円ほど)を保障し、数々の特権や、安楽で居心地のいい地位を守ろうということであり、根底から利己的である。そもそも「象徴」天皇制とは何か、それはいかなる意味で国家の「象徴」なのか、「象徴」といえるのか。

 「象徴天皇制」の概念は明らかにされてはいないが、しかし天皇制の存在自身が、天皇制が何を「象徴」しているかをすでに明瞭に語っている。

 天皇と天皇制は、明治維新後の薩長の藩閥政府専制の時代には、その支柱となってそれに奉仕し、ファッショ化した軍部専制の時代には軍部の意のままの道具となって、彼らの世界支配の野望のために先頭に立ちさえし、敗戦後のあからさまなブルジョア支配の時代には、「象徴」天皇制や、日の丸・君が代(事実上の天皇制賛歌)などの強要を通して、ブルジョア専制の助手の役割を担っている。

 「象徴」天皇制が階級国家、ブルジョア国家の様々な悪行や反動性や凶暴性や階級差別や男女差別(男権主義、父権主義、つまり極端な女性差別、女性蔑視等々を「象徴」した、小泉時代の“女帝問題”を想起せよ)を「象徴」することはあっても、よき社会関係を「象徴」することは全くないのである。君主制はそれ自体、専制と、ありとあらゆる人間差別、国民差別の根源として、したがってまたその「象徴」として君主制であり、そうでなくてはならないのである。

 生前退位についての天皇の発言は、「象徴」天皇制もまた反動的であり、有害であって、ただちに廃絶すべきであることをまたまた明らかにした。

 共産党などが、憲法を天皇制も含めて「丸ごと」擁護するなどとたわ言をほざいているが、そんなことに気を遣う必要は何もない、というのは、共産党はすでに、資本の支配する体制、現存の体制を「丸ごと」受け入れるだけの腐敗しきった政党で、スターリン主義の醜い残骸でしかないからである。

   

労働者派議員を勝ちとるために
セミナーに参加し徹底的に議論しよう

 我々マルクス主義同志会は、3月から5月の第12回大会において、遅くとも3年のちには国政選挙闘争に復帰し、労働者の利益と権利を守り、その未来を切り開くべく闘う、本当の労働者派の議員を生み出すことと、そのために、今この瞬間から、あらゆる面における準備を行っていくことを決定、確認しました。

 もちろん我々の力は今の時点では決して強大でも強力でもありません。ありとあらゆる困難や障害が我々の前に立ちはだかっており、選挙闘争を闘い抜くためになすべきこと、なさなくてはならない実際的なことも山とあり、我々の手に負えるのかという危惧と恐れの念に圧倒されそうです。

 しかし我々は現在の世界と日本の政治経済情勢に深刻な危機意識を持たざるを得ないのです。

 国家主義、軍国主義の路線に邁進し、その突破口として憲法改悪を企む安倍政権が居座っています。そしてそうした現実や、危険な状況に対して何ら抵抗することも、闘うこともできず、むしろますます堕落、頽廃して安倍一派の暴虐な政治や好き勝手を許している、野党=民共の日和見主義や、ブルジョア支配に対する思想的、実践的な屈服や追随を目の当たりにしています。

 労働者、勤労者の闘いが萎縮し、あるいは敗北し、階級として解体していると言えるような現状が存在しているのも偶然ではありません。長年にわたる、共産党の日和見主義やブルジョア的堕落や、闘いの放棄や裏切りの悪影響は歴然です。

 我々は、今こそ決然として立ち上がり、こうした階級闘争と政治闘争の状況を根底から変えて行くべきであると決意したのです。

 そして我々は13年にわたる、サークル的闘いや組織を止揚し、労働者党を再建し、断固として、公然たる闘いに移っていくことにしたのです。

 労働者の立場と利益を、その根底を真実に代表する代議士が議会に一人といわず、何名も公然と登場し、その演壇から真実の労働者、勤労者の声を発し、また闘っていくことは、全体としての労働者、勤労者の立場や地位を高め、また強め、その闘いを発展させ、深めるために巨大な意義と影響力を持つし、持ち得ると確信します。

 今こそ、選挙闘争を通じ、さらに議会の演壇を活用して、全国の数百万の極貧の労働者に、2千万の差別労働に苦しんでいる非正規労働者に、そして資本によって搾取され、苦悩している数千万の賃金労働者の全てに、勇気をもって資本とその支配に反対する闘いに立ち上がるように呼びかけるために、我々もまた決起すべき時です。

 今回のセミナーでは、我々は我々の新しい路線と、その意義と、そしてまたいかにして闘い、その路線を現実のものとしていくべきかについて、徹底的に議論し、考えたいと思います。

 心ある全ての労働者、青年の結集を呼びかけます。

   

【飛耳長目】

★志位は、参院選と、そこでの共産党の統一戦線戦術を、「11の〔一人区の〕勝利は最初のチャレンジとして大きな成功だ。第2、第3段階に発展させたい」と総括した★今後の「段階」として都知事選や衆院選を想定しているのだろうが、すでに都知事選では完璧な破産を暴露した。参院選の「成功」といっても、11では32のうちの3分の1の勝利であって、しかも野党が別々に闘っても数議席くらいは勝っただろうから、上積みはせいぜい数議席にすぎない。その上、複数区では民共は党利党略の利己的選挙に走り、乱立して数議席を失っている★それに統一戦線のためかどうか知らないが、共産党は前回選挙より数議席増やす見込みだったのに2議席減らしたのだから、そして結果として、与党に約6割もの議席を許したのだから、民共とりわけ共産党は完敗したのだ★自分は完敗しても、民進党が健闘したからいいというのか。自ら犠牲になって民進党が前進すればオーケーと言うなら、民進党と別個の党でいる必要性も必然性も、存在意義もないということだ。解党して、よろしく民進党に吸収されるべきだろう★そしてこうした道は、かつて欧州各国の共産党がたどった道でもある。志位は日本のベルリンゲル(志位と同様な日和見主義戦術=統一戦線」戦術を採用し、ブルジョア政党の尻尾となった末、解党してしまった、イタリア共産党の幹部)になりたいのか。(鵬)

   
   

【主張】

共産党は安倍といちゃつく
自衛隊との怪しげな♀ヨ係


参院選で、共産党の自衛隊に対する立場が、安倍の格好の批判の的になった。

 安倍は選挙中、「共産党は自衛隊は違憲だが、解散するまでは仕事をしてもらうという。こんな失礼な話があるか」と攻撃し続けた。

 また若い幹部の藤野が、NHKの政党討論会で、「防衛予算は人を殺すための予算」と“失言”し、与党側から総攻撃を受けたこともあって、志位は8月5日の共産党創立94周年記念講演で、この問題に言及し、釈明を試みている。 

 志位は、自衛隊と憲法の問題についての共産党の立場が矛盾しているのは、共産党の罪ではなく、憲法違反して自衛隊を育ててきた、自民党の罪だと強調する。

 彼は、自衛隊は憲法違反であり、この「矛盾」は解決されるべきだが、このことは簡単ではなく、「かなりの期間」を要するのであって、その間に自衛隊が必要になるなら、祖国防衛のため戦闘行為に従事し、災害時にも出動するのは当然で、そう主張したからといって非難される謂れは何もないと反論している。

 志位は、「この立場こそ、憲法を守ることと、国民の命を守る事の、両方を真剣に追求する、最も責任ある立場」であると叫んでいる。

 しかし資本の支配のもとで、自衛隊(軍隊)の存在やその意義を否定するなら、どんな「期間」であろうと、それは肯定され得ないのであって、それは憲法がどうあろうと――平和主義的であろうと、なかろうと――関係のないことである。労働者は、憲法がどうあろうと、ブルジョアの軍備増強や、軍国主義、帝国主義の発展に対して最後まで闘うし、闘い抜かれなくてはならないのである。

 自衛隊は違憲で認められないとしながら、そんな自衛隊や、その活動を、どんな「期間」中かは知らないが、認め、肯定することは根底から「矛盾」している。

 事実、志位はここでは隠しているが、共産党は戦後一貫して国家たるものはすべて、「固有の自衛権」を持っているのであって、その意味では憲法9条は正しくないと言い続け、敗戦後の憲法国会ではそれを理由に憲法に反対したのであり、その後も、日米安保条約がある限り、自衛隊は米国のための軍隊であって、日本のための軍隊ではない(だからよくない)、もし日本が「真の」独立を勝ち取ったときには――この意味は日米安保条約を破棄することだが、もちろんそれは、日本の“完全”独立といったこととは全く別問題である――、憲法を変えてでも軍隊を持てるようにすべきだと主張してきたのである。

 そして志位は、今ブルジョア民族主義者としての、こうした卑しい本性を隠しつつ、労働者、勤労者に媚び、あるいはブチブルや市民派に迎合して、平和主義者として、自衛隊や軍備増強に反対して現れなくてはならず、かくして現行憲法の誰よりも熱心な擁護者、支持者であるという、偽りの見せ掛けを作らなくてはならないのである。

 かくして志位の観念からは、資本による労働者の搾取体制や、資本主義世界において発展する軍国主義、帝国主義との闘いや、憲法の外で展開され、先鋭化する階級闘争、政治闘争などは完全に脱落し、消去されているのである。

 そしていとも安易に、労働者を取り囲む世界が「もし自衛隊がなくても安心だ」という世界になれば、労働者、勤労者の平和も生活も保障されるパラダイスがやってくるというのだが、ばかげたドグマであり、妄想であって、志位は、資本の搾取体制やブルジョア帝国主義の発展の前で、労働者を階級として解体し、武装解除するのである。

   

今さら無概念と無知を暴露して
「デフレは悪いことばかりか?」

ブルジョアや学者や安倍一派は、盛んに「デフレ脱却」を叫び、そのためにアベノミクスをさらに「ふかし」、「加速させる」と、財政膨張と金融緩和の経済政策=\―と言うより、単なるカネのバラまきといった、日本の経済も財政も、労働者、勤労者の生活もめちゃくちゃにしかねない、あるいは不可避的にそんな所に行き着くような、場当たりの、お粗末政治――に走っている。

 しかし彼らが克服するという「デフレ」とは、そもそも何であるのかについてさえ、いくらかでもまともな正しい認識――正しいかどうかを問う前に、いくらかでも明確な、一貫した観念さえ――がないのである。そんな連中が、“正しい”政策を見つけ出し、また実行に移すといったことはないし、あり得ない。

 彼らのデフレ概念とは何とか言ってみれば、物価の一般的な下落ということであるが、しかし仮にそうだとするなら、それがなぜに“絶対悪”であって、何が何でも克服されなくてはならないかは、ブルジョアたちはともかく、労働者には決して理解できない「永遠の謎」であろう、というのは、労働者、勤労者にとって物価が一般的に、そして継続して低下していくなら、それを悪いこととして否定し、物価上昇に恋いこがれなくてはならない理由は何もないからである。

 ブルジョアや悪しき経済学者や政治家たちは、デフレと経済不況や停滞や衰退さえも同一視するのだが、そんな観念もしくは認識は、経済の表面的な現実からも簡単に否定されるのだから、彼らの認識のナンセンスや愚昧さは最初から明らかである。

 他の経済条件が同一なら、物価が技術革新と共に、つまり労働の生産性の上昇と共に低下していくことは誰でも経験的に知っている、単純な真実である。

 それは同一商品を生産するための労働時間(商品の「価値」=価格として現象している)が減少していくからであって、それはまさに人類の “経済的”な、したがってまた社会的、“物質的な”(豊かさの)、そして増大する文化的な進化の、ブルジョア的現れである。

 そして商品の「価値」も、価格という形態において現れる限り、需給などの諸条件によって、日々刻々変動するものであること、そしてそれがブルジョア社会にとっての一般的な状態であり、また一つのメリット、うま味にさえなっていることもまた、万人が認め得る現実である。

 頭の空っぽのリフレ派経済学者や、安倍一派のご都合主義の政治家たちは、「物価安定」についておしゃべりすることもあるが、その意味は、物価が一定の水準を保つと言うことではなく、また社会の進歩に伴って、趨勢的に低下していくことでもなく、物価上昇の社会について、つまり2%とか、場合によっては数%の物価上昇が続く社会のことである。10%、20%の物価上昇ともなると弊害は大きいが、2%くらいなら経済的に理想的で、最良の物価の在り方であって、だからこそ、安倍政権や黒田日銀は、物価が低落する社会はもちろん、単に上がっていかない経済までもデフレ社会と呼び、2%の物価上昇を目標に、“異次元の”、そして“バズーカ砲並の”金融緩和政策などにのめり込み、そんなものが日本経済の救い主となるかにはやしたててきたのである。

 しかしその場合にも、彼らは、物価変動にも、日々の価格変動を除けば、一般的に2つの種類があって、それらは明確に区別されなくてはならないということを全く自覚していなかった。だから彼らの物価上昇を目ざす努力は混乱し、試行錯誤を繰り返し、結局は失敗するしかなかった。

 もちろん彼らの失敗の原因が、彼らの知識と理論のナンセンス、というより欠如のためだと一概にいえないとしても、こうした無知蒙昧が彼らの経済政策の選択を過たせ、それを失敗と破綻に導いたと言って少しも間違いではない(そもそも労働者なら、そんな“政策”に期待したり、採用したりすることは決してない)。

 今、デフレ脱却が進まない中で、そしてデフレが継続する中で、つまり物価がはかばかしく上昇しない中で、まだデフレが続いているといった陰鬱な“悲観論”がはびこり、他方では、安倍政権のように、アベノミクスをさらに「加速させる」などと無軌道な財政膨張につっ走る政治家が現れる中で、「デフレは悪いことばかりか?」といった疑念を今さらのように述べる――そもそもデフレ=原罪論をとなえ、そんなドグマにとらわれているべきではないと言いたいらしい――マスコミリベラルも現れている(朝日新聞、8月9日の「波間風問」、編集委員の堀篭俊材=ほりごめとしき)。

 彼はグーグルの発明家、レイ・カーツワイルの著書を引いて、「彼は『デフレは悪いことか?』と問いかけている。『失われた20年』の元凶とされるデフレも、技術革新が一因」と言っていることを紹介している。

「技術が加速度的に進歩すると、デジタル関連の製品やサービスの価格は上がりにくくなる。失業率の低さや資産価値の上昇などはインフレの原因となるが、コンピューターや通信といった情報技術のコストパフォーマンスが飛躍的に高まることで相殺される、という分析だ」

 そして堀篭は、俗学者(みずほ総合研究所の多田出健太)の“解説”も付け加えて紹介している。

「技術革新が原因のデフレは生活の豊かさにもつながる。賃金削減などのコスト抑制による『悪いデフレ』とは違います」

 こうしたえせインテリらは、インフレが単なる物価上昇を意味しないと同様に、デフレも単なる物価下落ではないことを、つまり“経済学”の初歩さえも知らないのである。

 日々の価格変動を別にするなら、商品の価格は商品の価値が小さくなるなら、その価格――貨幣による価格表現――も小さくなる、つまり価格は下落する。

 もちろん、これは商品の価値の変化を反映したものであって、我々の常識的な判断力によっても容易に理解できるものである(商品価値の価格表現はいかにして、何によって行われるのか、行われなくてはならないかといった、“難しい”理屈など何も知らなくても)。

しかし商品の価格は、商品の価値が同じであっても変動するのだが、まさにこうした名目的な価格現象(上下の変動)をインフレ、デフレという言葉で表現するのであって、それは商品の価格を表現する――その基準となる――貨幣(貨幣もまた、一つの商品であり、その「価値」は金を生産する労働時間によって規定されている)の価値が変動するからである。

 商品の価格変動の原因が、商品の価値の変動の方にあるのではなく、貨幣の価値の変動にある場合にのみ、デフレ、インフレについて語り得るのである。

 紙面と時間の都合のために、結論的にいうと、貨幣価値が大きくなるなら(つまりこれは、金を生産するに必要な労働時間が大きくなるということである)、商品の価格は価値が不変であっても下落する(商品がより少量の貨幣金と交換され、その貨幣量によって、商品は価格表現を受け取るから)、他方、優良鉱が発見されるなどして、あるいは採掘技術の改良等々によって、金を生産する労働時間が短縮されるなら、貨幣金の価値は少なくなり、商品の価格は上昇する。

 前者はデフレといわれ、後者はインフレの名で呼ばれている。しかし「価値論」も何もない、そんな科学的な概念を知らない、ブルジョア経済学派や安倍一派らにとっては、デフレ、インフレの本当の概念規定は全くどうでもいいこと、猫に小判である。

 多田出は、まるで「いいデフレ」と「悪いデフレ」があるかに語るのだが、ただインフレ、デフレの概念を知らないだけであり、物価上昇や物価下落にも「色々ある」こと、したがってそれらを区別することが実践的に重要であり、また必要であるということを知らないだけである。

 だから、彼らは技術革新が進むと、「価格は上がりにくくなる」と、まるでそれが「悪いこと」、経済や社会にとってマイナスのことであるかに語り、不況や経済の停滞が深まることと同一視し、その結果として、バラまきによる物価上昇を願望し、そしてそれによる「景気回復」や、「経済成長」までも期待するのだが、根底の観念が愚劣であり、ピント外れだから、目標とする結果をもたらすことは決してできないのであり、かえって不況や停滞をダラダラと長引かせ、インフレを招き寄せ、経済や財政や社会の弱体化や寄生化や衰退や、解体さえも招き寄せるのである。

 堀篭は最後にようやく、経済的困難や停滞や衰退からの抜け道として「成長」に進む道について語っている。

「シンギュラリティ(「AIが人間の知能を超える」といったような、“技術的特異点”)に向かう世界で成長して行くためには、規制緩和による新たなビジネスモデルの創出といった正攻法でいくしかない」

 彼らが怪しげではあれ、それでも「正攻法」について語るようになったのは慶賀に堪えないが、いささか遅すぎるということ、そしてその可能性が彼らにあるかということである。

 現実には安倍政権も黒田日銀も、その反対のことだけを考え、そんな場当たりの政策で、目先の“成果”ばかりを追い求めているのだから、彼らの未来はない。

   
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