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マルクス主義同志会機関紙
『海つばめ』

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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
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まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1281号 2016年7月31日
【一面トップ】財政膨張政策への転向――安倍黒田の異次元″も種切れだ
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】共産党と市民派の「立憲主義」――参院選敗北の最有力戦犯
【二面トップ】「人間」視するなら天皇制廃止しかない――憲法は天皇を「旗」と同等のモノ(「象徴」)と規定

※『海つばめ』PDF版見本

財政膨張政策への転向
安倍黒田の異次元″も種切れだ

安倍は参院選で勝利し、参議院でも憲法改定を発議できる国会勢力を獲得した。憲法9条となると公明党との関係は容易ではないが、しかし憲法改定発議という困難な第一歩を突破することは可能になった。しかし安倍はその自らの野望は秘めて、志半ばだと自らいうアベノミクスの達成のために邁進するというのである。なぜか、安倍の意図は何か、そして安倍の経済政策における転向は、安倍政権を、日本の経済を、政治をどこへ導くのであろうか。

 憲法改定ではなく、デフレ脱却こそが参院選の“焦点”であり、「アベノミクスをさらに進めるのか、止めるのかを決める選挙戦」と位置づけたのだから当然のことだとでも言いたいのだろうか、あるいはここでデフレ脱却が空語に終わり、経済的な停滞や危機が深まっていき、安倍とアベノミクスの信認が煙のように消えていけば、そして安倍の経済政策に対する呪詛や憎しみの声がちまたに満ち満ちるような時代になっていくなら、9条改定の野望もまたついえるのを恐れて、アベノミクスの“完遂”をまずやり遂げようというのであろうか。

 参院選では安倍自民党は勝利したのだが、それは国民が、労働者、勤労者がアベノミクスの恩恵を十分に受けて、積極的に安倍の政治を評価したからではなく、アベノミクスなど評価しないのだが、他に支持する政党がないから、民進党や共産党はどうしようもないから、やむなく、そして渋々、安倍自民党に投票していると知って、つまり高い支持率を維持する自分の政権も決して安泰ではないと知って、危機意識を高めているからであろうか。

 安倍にとって政権を維持する動機はただ一つである、つまり権力志向である。彼の権力主義は9条の改定よりも強いとさえいえる、というのは、安保法成立も集団的自衛権行使容認などは、現行憲法のもとで「解釈改憲」という不まじめなやり方でいくらでも可能だし、また自民党の半世紀の歴史の中でも一貫してそうしてきたことであって、憲法改定などなくても実際的にはほとんど差し障りがなかったからである。

 安倍がアベノミクスの達成、つまり「デフレ脱却」――それがどんなものであるかは、今もって不明瞭である。2%の物価上昇ということでいいのか――は、今や安倍が権力を維持する上で、最大の課題(つまりそれが不調であることが最大のネック)となっているのであって、その点で失敗していくなら、安倍の権力は根底から揺らぎかねないのである。 

 だからこそ安倍は憲法改定ではなくて、今やアベノミクスの“達成”のために真剣にならなくてはならず、憲法改定は一時棚上げする、あるいは先延ばしするのであり、そうすることが最善と判断するのだが――それこそ、安倍が巨額の財政バラまきを叫び、そんな政治に狂奔し始める理由であり、必然性である――、しかし今後そんなやり方でアベノミクスを「加速」することが経済や財政の破綻に直結することが明らかになっていくなら、安倍のこんな思惑は逆に出るしかないのである。

 安倍が財政バラまきに走り、デフレ脱却を叫ぶのは、労働者、勤労者の現実の生活やその困難のことを考えてではないし、ブルジョアとして安倍は、そんなものにほとんど関心を持ってはいない。労働者、勤労者の生活はブルジョア的繁栄の結果として、そのおこぼれとして、つまりブルジョアたちの株価高騰や、利益や所得の増大の“トリックルダウン”(おこぼれのしたたり)としてのみ可能であり、あり得るのであって、それ以上ではないのである。

 そして消費増税を何回でも延期するが、それもまた労働者、勤労者のためではなく、選挙で増税を謳ったら不利だという打算だけからことであった(もっともらしく、増税したら消費を後退させて不況を深化するなどと言いはやしながら)。消費増税で年金など社会保障の充実を図る、財政再建にも資すると約束してきたことからするなら、国民への裏切りでさえある。

 国民以上に、現実から目をそらしているのは安倍であり、安倍政権である。

 金融緩和で失敗して懲りたかと思うと、反省し、思い直すどころか、今度は金融緩和ではなく、「財政出動」だ、金融緩和だけではダメなら、財政膨張と結びつけてやる、いやそれも面倒くさい、「やれることは何でもやる」、可能な政策手段を「総動員する」と絶叫するのだから、安倍政権は理性を失い、まさに財政破綻、経済破綻猪のように盲進しているようにしか見えない。

 あたかも天皇制軍部が一旦始めた反動戦争をどんなに愚劣戦争であり、早期に戦争を止めるしかないと分かっていて、本土決戦と原爆投下、ソ連の参戦に至るまで止められなかったのと同様で、日本の金融・財政の破綻、そして経済全体の破綻に行き着くまで、金融緩和や財政膨張をますます「加速」させるしかないのである。

 金融緩和と財政膨張を結びつけるということは、日銀のファイナンス≠ノ依存した財政膨張をこれまでと違ったやり方で、つまり「異次元の」やり方(国債の直接の日銀引き受け、あるいは何らかの形のヘリコプターマネー&式)で行うという宣言であり、財政再建の完全な放棄であり、むしろ財政のことは配慮しないで財政バラまきに徹し、通貨の紙幣化を策すという宣言、2%のインフレどころではなく、数%、あるいは10%、20%のインフレも辞さないという宣言ではないのか。

 1000兆円にも達する国家債務、つまり国家の事実上の破産状態を目の前にして、安倍はこともあろうに、さらに「財政規律」を疎かにし、最終的に投げ捨てるような財政バラまき政治に走り始めたのである。何を考えてのことかは知らないが、それが安倍政権にとっても破滅の途であることだけは確かである。そんな政治は近い将来、労働者、勤労者にとって大きな災厄として、生活を脅かし、破壊する危機として訪れてくるであろう。

 いわゆる「市民」たち――インテリやマスコミ人や学生や主婦(「ママ」)たち――は、労働者、勤労者と違って自ら生産的な労働に従事しない階層であり、したがって生活のことを他人事のように感じるのであり、観念的な憲法幻想とか立憲主義幻想にいくらでも取りつかれ、そんなものが参院選の“争点”だと思い込むのだが、実際には、社会の根底的な関係を規定するのは生産や分配であり、したがってそれらがいかなる関係のもとで、いかに行われるかである。

 安倍は野党の軽視する、それらの問題で労働者、勤労者に解答を与え得るかに思い込み、あるいは幻想で釣ろうとして、アベノミクス等々を持ち出すのだが、そんなものは頽廃した現代ブルジョアの幻想であり、世迷い言であることが分かっていないのである。

 そして問題は野党を自称する民共もまた、安倍らと同様な幻想を、ケインズ主義的な幻想を共有しているのであって、まさにそれ故に、安倍政権やアベノミクス等々を根底から批判して闘い抜くことができないということである。安倍政権が「経済政策を総動員」して、つまりカネを無制限にバラまいて刺激し、訴えようとする「市場」とは結局は実物市場ではなくて金融市場である。株価が上昇していけば、企業が万々歳だというのだが、しかしかつて金融緩和をきっかけとする株バブルがあったが、それは経済の実質的成長とは別であり、むしろ結局はそれにとって有害であり、経済の長期的な衰退や停滞につながっただけであった。

 金融資本は、産業資本の発展や搾取強化を助長することでブルジョア社会において大きな意義を持ちうるが、産業資本の生む利潤のおこぼれによって生きる存在に過ぎず、その意味では主役でなく、寄生的な脇役である。そしてそんな脇役が主人顔してのさばる社会は頽廃した社会になるし、なるしかないのである。

 産業資本の繁栄ではなくもっぱら金融資本が浮かれるような「経済政策」に熱中する、現代のブルジョア国家とは転倒した観念と幻想に生きる、間違った存在ではないのか。安倍政権が本当の「経済成長」等々をもたらすのではなく、ますますその反対に行き着くのは一つの必然ではないのか。

 現代の資本は、そしてその国家は頽廃し、反動化し、今後はただ腐っていくだけである。

 今こそ資本の支配とその根底に向けられた労働者、勤労者の闘いが、「労働」の解放――労働の搾取と差別の一掃――を目ざす労働者の果敢な闘いが組織されて行かなくてはならないときである。

   

【飛耳長目】

★石原慎太郎が、戦後憲法は米国から押しつけられたものであって、こんな屈辱はないと息巻いている。とりわけ“物書き”を仕事としている人間として、憲法の前文は「醜悪極まりな」く、我慢がならないとわめいている★彼が毒づいて止まないのは、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しようと決意した」という文章である。ここは麗しい日本語とその文法からしても、どうしても「公正と信義を信頼」としなければならないというのだ★文法的に正しくないというが、「公正と信義に信をおく」とでも読めば済むことであって、問題は文法が正確かどうかではなく、そこに述べられている思想がどうかである。我々はここに労働者の国際主義の萌芽が表現されている限り、この思想を支持するが、しかしその場合、労働者が信をおくのは、国家主義、帝国主義――とりわけ自国のブルジョアや反動たちの――に断固として、最後まで闘う世界中の労働者階級に対してであって、抽象的な「平和愛好の」国民や、ブルジョア的世界市民主義者、世界連邦主義や、彼らの観念に対してではない★憲法の文章が日本語として仮に悪文だとしても、それは英文を日本語に訳した外務省等々の日本人の罪であって、英文原文の罪でない。石原を何を血迷っているのか。「日本人としての卓抜な感性」を欠いているのは、野蛮な石原自身であろう。(鵬)

   
   

【主張】

共産党と市民派の「立憲主義」
参院選敗北の最有力戦犯


 参院選で野党は惨敗したが、その原因の一つは、憲法擁護を主要な課題として闘ったことにある。もちろんブルジョアや反動の政府の改悪策動に反対して闘う場合はあり得るとしても、参院選における共産党や市民派の憲法闘争は抽象的、観念的であって、労働者、勤労者に訴える内容はほとんどなかった。

 そして彼らのそんな立場を象徴したのが、「立憲主義」といった俗論であり、そんなものを闘いの根底としたことであった。

 立憲主義の本質は、憲法に対する非歴史的、観念的接近であり、ドグマであって、憲法は「国家から個人を守るためのもの」、「個人がその生き方を全うできるよう、国家権力を縛るためのもの」といった観念である。

 こうした見解が、一方で「個人」を絶対化し、その対極に「国家」をおき、その対立関係の中で人間の社会関係について語る、幼稚な歴史的観念論であることは一目瞭然である。

 だから彼らは自民党の憲法草案が、13条の「すべて国民は個人として尊重される」とあるのを、「人として尊重される」と書き変えているのを本質的な問題だとヒステリカルに叫ぶのだが、個人主義者としての卑しい本性を自ら暴露しているだけである。

 彼らは立憲主義は人類の進歩の中で生み出されてきた、最高絶対の原理であり、その源流はブルジョア革命期の人権宣言等々にあると言いはやすが、しかしその時代の憲法や人権宣言自体が、「個人」ではなくて「人」を謳っているのだから、彼らの主張も珍奇であり、台無しである。

 こうした連中は、「人権」と言うからには「個人」のものだと勝手に思い込むのだが、しかしブルジョア革命期における「人権」とは国民全体に関する問題であった、というのは、貴族支配に反対したブルジョア階級は自らを国民全体、したがってまた人類全体と仮想し、そのように自己規定していたからであって、「個人」の問題など全く考えていなかったのである。立憲主義の観念論者たちは歴史についても根本的なことは何一つ理解していないのである。

 そして彼らは立憲主義は民主主義を超えるものであるかに言いはやしている。彼らにとっては民主主義はそれ自体、“衆愚主義”であって、だからこそ簡単に専制政治やファシズムに転化するのである。彼らの立憲主義にはブルジョア的貴族主義や、選民主義≠ェ色濃くこびりついており、進歩的というより保守的であり、現状肯定的である。

 そして彼らはある意味で国家を前提し、絶対化して議論するのであり、その国家は人民の国家ではなくエリートの支配する知的道徳的国家、尭舜らが「徳」でもって支配した古代の王権国家や、英明なる啓蒙君主の支配する“絶対主義”国家である。こうした国家を「縛る」者(影響を及ぼして、理想国家を建設する者)は、民主主義は無用なのだから、そして人民は“衆愚”なのだから、結局は樋口陽一らの最高の哲学的、道徳的存在であるエリートたちである。

 立憲主義が民主主義に対して否定的で懐疑的なのは一つの必然である。彼らは徹底した個人主義者として、国家に対してだけでなく、“衆愚”の多数派や、多数決によるその「独裁」にも反対し、抵抗しなくてはならないのである。

 しかし労働者、勤労者は民主主義に反対するのではなく、それを徹底し、「労働の解放」を目ざすのであって、ブルジョアエリートらの、ありがたい“啓蒙的”専制を享受することなどまっびらごめんである。

   

「人間」視するなら天皇制廃止しかない
憲法は天皇を「旗」と同等のモノ(「象徴」)と規定

天皇が、つまり日本の“国民”にすら属しない、したがって国政や国民の権利義務とも無関係な“天皇”なるものが、「生前退位」を“希望する”と言い始めた。ブルジョア世論も安倍政権も、「藪をつついてへび――たとえば天皇制の“戦争責任”とか、天皇制そのものの退位、つまり廃絶といったへび――を出す」ことになりかねないなどと困惑気味である。

 知ったかぶりの、そして何の原則もない自由主義的世論(朝日などのマスコミ)は、天皇といえども「人間」であり、“公務”が大変な重荷になっていらっしゃる、その自由な意思表示や「人権」は認められていいのではないか、ましてご高齢の天皇であって、憲法の定める「国事行為」をこなすことも杓子定規の憲法や皇室典範の厳格な適用などする必要はないのではないか、などと言い始めている。

 しかし天皇は、実際には太平洋戦争の激戦地などへの「慰霊の旅」とか、被災地への「お見舞い」とか、あれこれの国民的「行事」への参加とか、「皇室外交」とか、憲法に規定されている以外の“政治的な”意味を帯びる行為や、皇室の人気取りや利益のための行幸とかに大忙しであるが、最悪の“戦争犯罪人”一家の長として、破廉恥で、はた迷惑な出しゃばりではないのか。

 天皇やその一家の「人権」についておしゃべりするなら、まず天皇を天皇として、つまり「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」という、天皇の存在についての規定を廃絶することから始めるべきであって、天皇をこんなわけの分からない地位や立場に祭り上げておいて、天皇も「人間」であり、日本国民の一員であるかに「人権」を云々するのは筋違いではないのか。天皇に「人権」を認める前提は、天皇が我々と同様な普通の人間の一人であり、また国民の一人であることだが、しかし日本の憲法は、明仁を我々と同様な人間とも、国民の一人とも認めていないのである、というのは、彼は国家や国民統合の「象徴」だからであり、そんな存在としてのみ天皇だからである。

 しかし一人の人間、一人の国民として明仁は天皇ではなく、単なる個人であり、したがって国家や国民の象徴にも、国民統合の象徴にもなり得ないのだが、それは安倍が首相になったからといって、そうなり得ないのと同様である。

 かくして天皇なるものは「人間」ではなく、人間や国民を超越したものとして天皇であるし、天皇と憲法で規定される限り、そうなるしかない、つまり全知全能の“神”として、一切の批判から超絶した、超越的、“絶対的な”存在として事実上規定される以外ない。国民はその前にみな頭をたれ、ひれ伏し、尊崇する以外ない存在、というわけである。

 国民を15年にもわたる、反動戦争に駆り立てるには、近衛文麿や東条英機の名によってでは十分でなく、抵抗も大きいのだが、天皇の名によってなら、天皇のための戦争だということならより容易になるのであり、だからこそ天皇は超越的存在、「神聖にして侵すべからざる」存在として、世界の労働者、勤労者を搾取する欲望に燃える帝国主義的大ブルジョアや、野望や名誉心、功名心の塊でしかない軍部ファシストや、反動的な国家主義の政治家たち――安倍や石原ら悪党の同類――にとって、労働者、勤労者を彼らのもとにひれ伏させる、これ以上ない道具であったのである(今も本質的にそうである)。

 ブルジョア支配階級はそんな“天皇”像をでっち上げつつ、自分たちの支配のために利用するのであり、“絶対的な”天皇の権威を利用して労働者、勤労者を支配し、搾取し、また彼らの支配体制や秩序体制を強化し、日の丸・君が代であれ、天皇崇拝であれ、何でも押しつけ、その前に羊のごとく従順に、従属することを強要するのである。かつては数百万の国民が無意味に死なくてはならなかったような、そして国土までが焼け野原になり、荒廃したような反動的な15年戦争(1931年から45年まで続いたアジア・太平洋戦争、日本が口火を切った帝国主義戦争)に、まさに天皇の名で労働者、勤労者を駆り立てたのである。

 自由主義派は、今の天皇制は、「『人間天皇』への配慮が欠けていた」とか、「『天皇は自由意思は持てない。国家制度の一部である』という冷徹な“天皇機関説”に聞こえる。『天皇に人権なし』とさえ言っているようだ」とか、「天皇は日本国憲法のもっとも大切な理念である基本的人権の『枠外』としてしまっていいのだろうか」とか、「われわれは象徴天皇制が血の通った一人の人間の存在の上に成り立っていることをよく考えてみなければならない時期に来ているのかもしれない。もし、それが人権を抑圧し、犠牲を伴う制度であれば、それこそ憲法の理念に反している」とか言いはやしいる(朝日新聞、7月22日、編集委員・井上亮)。

 笑止千万である。天皇制の「非人間性」は、この時代遅れの、野蛮な制度自体に内在しているのである。その本質は、かつての15年戦争によって完璧に暴露されたのであって、戦争に駆り立てられてなすところなく死んでいった何百万の軍服を着た労働者や農民や青年たちにとっては――あるいは生きて帰ってきた彼らにとっては――明らかであって、敗戦後、マッカーサーが仮に天皇を戦犯として告発し、天皇制を断固として廃止したとしても、喜び勇んで大歓迎しこそすれ、文句一つ言わなかったことだけは確かである。

 マッカーサーは敗戦後、日本を“民主化された”ブルジョア国家として立て直すために、そして労働者の革命を回避するために、天皇の免罪と引き替えに、天皇と天皇制を利用しようと決意したのである。安倍や反動たちは、天皇制を延命させたマッカーサーへの感謝の念を、戦後ブルジョア体制の恩人を、東京裁判のありがたささえ、決して忘れるべきではないのである。

井上らが、天皇制は「憲法の理念に反している」というなら、それは天皇制自体にあるのであって、一貫するためには、時代遅れの天皇制を廃絶せよと言うべきであり、またそうする以外ないことは明らかである。天皇に国民としての権利が、つまり憲法が適用されていないというなら、それは天皇を一般国民と区別される「国家の象徴」といった、意味不明の地位に祭り上げている、反動的な憲法自体の問題であって、憲法から天皇制条項を一掃する以外に、どんな原則的な解決も存在しないのである。

 天皇や天皇制の存在自体が、国民全体の「権利」をすでに侵しているときに、天皇を国民全体から、労働者、勤労者から区別し、切り離して、「国家」や国民の象徴に祭り上げ、最初から「出自」や「血筋」や「家系」や「社会的身分または門地」(現行憲法14条の言葉)等々によって差別し、分断し、憲法そのものにさえ、その「権利」規定にさえ矛盾し、齟齬を来しているときに、天皇の「人権」などなぜ持ち出すのか、持ちだす必要があるのか。

 自由主義派は天皇の「人権」を心配する、しかし天皇制自体が国民全体の「人権」を無視し、それに反した存在であり、国家の体制だというときに――というのは、それが根底的に国家的規模における、ひどい差別制度であることは明らかである――、天皇の「人権」についてもっともらしいおしゃべりふけることはできない。

 天皇は国民に保障される「人権」を超越した存在として、そして憲法に定められた「国事行為」を忠実に、自分の「義務」として行う限りにおいて、「天皇」であり、そんな天皇に「人権」があるとか、ないとかいう議論こそナンセンスであり、ピント外れである。

 井上は「冷厳な“天皇機関説”」を持ち出すが、ここでは「冷厳な」も、「冷厳でない」もないのであって、天皇制が現代にあってはすでに時代遅れ――というより、時代錯誤――であり、非人間的であるしかない――国民にとっても、そして天皇一家にとっても――という、根本的なことを忘れている。「冷厳」を言うなら、それは天皇制そのものに内在する、天皇制の本質である。

 我々は天皇の「人権」を心配する前に、何百万、何千万の労働者、勤労者の「基本的な人権」さえ疎かにされ、踏みにじられている現実を――そしてそうした現実に天皇と天皇制自体も関係していることを――、問題にしなくてはならない。

天皇の「人権」について言えば、その喪失さえ、天皇や天皇家の連中にとっては苦痛であるどころか、自分らの存在を確かなものにしてくれる一つの愉悦であり、快事でさえあり得るのであって、そんな特権階級中の最も特権的一家である天皇らの「人権」のために心配してやるのは愚の骨頂であり、気楽な自由主義派の偽善的で、利己的でさえある本性を暴露するのである。

 天皇や天皇一家がそんなにも「人権」の欠如が苦痛だというなら、個人的にでも、全体(天皇家)としてでもいいから、さっさと自分たちの特権的、“治外法権的な”地位の国民への返上でも「奉還」でも何で申し出ればいいのである。ブルジョア支配階級や反動はいざ知らず、労働者、勤労者は喜々として彼らの「大政奉還」を承認し、うっとうしく、煩わしく、そして不愉快な権威や、「文化」や「伝統」といった独りよがり(内容のない「象徴」といった、純粋に寄生的存在)の一掃と喪失を大歓迎し、ただそれだけで、たちまち晴れ晴れとした気分になること請け合いである。

 天皇制権力によって虐殺された明治の幸徳秋水や昭和の小林多喜二らの例を引くまでもなく、また「天皇」の名によっておこなわれ、何百万の日本の労働者、勤労者の、若者たちの、あるいは日本の侵略による、アジアを中心とした外国の死者も含めれば、千万、二千万にも達するような犠牲者を出した15年戦争を持ち出すまでもなく、天皇制はすでに余りに多くの労働者、勤労者の血にまみれた、野蛮で反動的な制度であることを、歴史的にも自ら明らかにしてきたのである。

 朝鮮の植民地化、つまり何千万の朝鮮国民の奴隷かもまた、天皇の名によってなされたのである。

 井上が、天皇制が「憲法の理念に反している」というなら、そしてこの自分の主張にどこまでも忠実でありたいと望むなら、彼は天皇制の廃絶を要求し、そうした立場から憲法改正に賛成して断固として立つべきであろう。

   
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