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マルクス主義同志会機関紙
『海つばめ』

◆隔週日曜日発行/A3版2ページ
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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
  または各支部・会員まで。
  メールでの申し込みも可能です。

まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1280号 2016年7月17日
【一面トップ】負けるべくして負けた民共――政治的に敗北、さらに野党共闘で失敗
【一面サブ】主権者教育=中立性論の欺瞞
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】労働者解放はあの世≠フ話?――宗教政党≠ノまで堕落する共産党
【二面トップ】政治野心実現につながらず――日本破壊する修正<Aベノミクス

※『海つばめ』PDF版見本

負けるべくして負けた民共
政治的に敗北、さらに野党共闘で失敗

 6月22日に告示され、7月10日の投票日前日まで、18日間にわたって闘われた参院選は、自公を中心としたブルジョア勢力、反動派勢力が非改選の議員もふくめて3分の2以上を占める結果となり、彼らの圧勝に終わった。安倍は憲法や安保法(共産党などが「戦争法」と呼ぶ昨年秋に成立した法律)が争点≠ナはない、アベノミクスの正否を、妥当性や正当性を問う選挙だと叫んだが、そのアベノミクスに対する有権者の支持が2割、3割だという中で行われた選挙において、自公が圧勝して民共が敗北したということは、民共が自滅したということ、安倍政権が勝ったということでなく、民共が全く支持されなかっただけであるという、深刻な政治的頽廃と、政党政治≠竍民主主義¢フ制の末期的症状を暴露する以外の何ものでもない。とりわけすでに政権について、その無力と破綻を労働者、勤労者の前にさらけだし、見捨てられている民進党(旧民主党)との野党共闘に賭けて失敗した、共産党の日和見主義――というより、それ以前の政治的愚劣さと愚鈍さの問題かもしれない――は致命的であって、こんな政党は旧社会党の後を追って解党し、消えてなくなる以外ないのではないのか。

 安倍はいくら民共に攻撃され、挑発されても――いわく、改憲を言わないで経済好転の幻想で釣って多数を獲得し、いつたん国会で3分の2の多数派を形成したら、それをテコに改憲を強行しようしている、逃げている、卑怯だ、非民主的だ等々――、参院選中、街頭などで頑強に「憲法」について沈黙を守り続け、アベノミクスの「成功」や「効能」――実際にこの4年近くもの長い期間に達成されたものでもない、単にこれからあり得るかもしれないような「効能」や「成果」といった、怪しげなもの――について、つまりゲテモノについてもっぱら語った。

 安倍は「憲法改定の意図を隠している」といった批判を聞き流しつつ、いわばアベノミクス一本で¥泄奄オ、勝利したのである(我々は闘わずして小手先の“選挙戦術”に頼るなら民共は決して勝てないだろうと主張したが、結果はまさにその通りになった)。

 民共はそんな安倍に政治的に対抗することができず、まさに実践的、政治的に決定的に敗れ去った。そして政治的に敗北しておいて、野党共闘とかの数合わせで何とかつじつまを合わせようとしても、うまく行くはずもなく、完敗をカバーすることはできなかったのである。

 しかも彼らは野党共闘で闘うと言いながら、少しもまじめでも真剣でもなく、一人区の香川はもちろん(唯一、共産党が野党共闘の候補者になった選挙区、民進党は共産党候補の支持を拒否し、ろくに闘わなかったから、1+1が3にも4にもなるどころか、民共の支持票を大幅に下回る得票しかなく惨敗した)、ほとんどの複数区で党派エゴを丸出しにして対立し、対抗して票を奪い合い、共倒れし、議席を失うなどして数議席も自公や維新などにみすみす献上するという裏切り行為をやったのである(千葉、神奈川、大阪、兵庫では勝てる議席を反動派に差し出した、そして福岡等々でも党派エゴ丸出しで乱立した)。

 この数議席を失ったことは決してどうでもいいことでは決してなかった。というのは、自公や反動は辛うじて無所属等々の数議席を加えることによって、参院で3分の2の勢力を確保できたからである、つまり3分の2の議席を反動勢力に与え、改憲国会発議という安倍の野望を助けたのは野党共闘派のせいであり、彼らが結局党派エゴにこだわったため、と言われても、民共は何の弁解もなしえないのである。

 安倍が今回の参院選で憲法問題を問わないというなら、そしてアベノミクスで勝負するというなら、民共はそれを「受けて立ち」、堂々と闘って何かまずいことがあったというのか、むしろ好機至れりと、それで対決すべきではなかったのか、というのは、アベノミクスはすでに行き詰まり、破算が完全に暴露されており、しかも重要なことは、ますます暴露されて行きつつあったからである。

 だが民共はそんな“正道”を歩む意思も信念も展望もなかった、というのは、第一に、彼らは観念的なドグマ――民主主義的、平和主義的(そして“天皇制的”でさえある)憲法を、歴史的に評価することができず、観念的に絶対化し、美化するような歴史観念論、形而上学的観念のとりことなっていたからであり、第二に、アベノミクスと対決して断固闘い、それを圧倒し、粉砕する信念も見通しも持っていなかったから、持つことができなかったからである。

 第一の点について言えば、我々はすでに多くを論じてきた。民主憲法や立憲主義といったものは、250年ほども前の、ブルジョア革命の時代の革命派(ジャコバン派、ジロンド派)のイデオロギーであり得ても、頽廃を深める現代において、資本の支配に反対して闘う労働者にとっては陳腐で、反動的でさえあるイデオロギー以外ではないのである。「市民主義」といったものも、事実上、すでに現代の頽廃した資本主義に寄生する、独りよがりの観念的インテリの立場でしかない。

 アベノミクスに民共が反対し、それを徹底的に暴露して闘い得なかったのは、民共自身が半ば――否、根底的に!――アベノミクスと共通の政治的、観念的な立場に立っていたからであって、両者の違いは、安倍が、そしてマスコミ・リベラルなどが、現代の空疎で、子供だましのような内容しかない経済学(ケインズ主義)を援用したのに対し、共産らがスターリン主義派のプチブル的空想でしかない“過少消費説”にとらわれていたということだけであって、「消費」や「需要」の拡大や創出がデフレや経済的な不況や停滞を一掃するし、なし得る――事実はむしろ、その反対であるし、すでにそうであることが事実と経験の中でも明らかになっているのだが――といった幻想を、従って、国(政府)や日銀を通したカネのバラまきこそが彼らの“神”であって、そんな柄の悪い政策が世界を救うという幻想を信じていたという点では全く同じであった。

 民進の岡田は消費増税論者でありながら、参院選に際して、安倍より先にそれを言わないと、安倍と闘うことができないなどと考えて、自ら消費増税の再延期を持ち出し安倍を助けつつ、財源は国債発行(国家の借金)で賄うなどといって、混乱と背信を繰り返しつつ恥じるところはなかった。

 共産党の志位は、安倍とともに消費増税の延期が景気回復や、経済停滞からの脱出のカギであるかの俗流的な立場――インテリやくざのリフレ派学者と同様の、半デマ的“ポピュリズム”の立場――を暴露し、安倍と一緒になって、もし賃上げがなされれば――仮定で語ってどうするのか――、景気が良くなって、ブルジョアも労働者も共に大満足のめでたしめでたしの社会がやって来ると言った世迷い言を、ありもしないユートピア幻想を振りまいた。

 かくして民共は参院選において最初から負ける闘いを挑んだのだが、それは彼らの階級的な立場が自由主義的でありプチブル的であって、安倍政治の根底を突くことが決してできなかったからである。

 民共は政治闘争で安倍に敗北しておいて、党派エゴを隠したご都合主義的な“戦術”(野党共闘)によってそれを挽回することは決してできなかったのである。政治的に安倍に打ち勝つことができたなら、民進党は共産党の助けなど少しも必要ではなかったのである。一人区だけとっても、07年の参院選で、民主党は完全に自民を圧倒したし(民主23、自民6)、1989年にも旧社会党は“オタカさん”(土井たか子)を先頭に立てて、消費税反対をスローガンに自民を粉砕している(社会23、自民3)。共産党の助けを借りて、何とかしようとしたことこそ、今の民進党のなさけない日和見主義や敗北主義でしかなく、自らの政治闘争に対して最初から何の自信も展望もなかったことを教えている。

 民共は、憲法で対決しようとして――対決できると間違って考えて――、かえって安倍の勝利を許すと共に、憲法が事実上、参院選の“争点”であることを国民大衆に印象づけ、また客観的にも確認させてしまった、つまり「ヤブをつついてヘビを出した」のである。

 もし安倍が憲法を持ち出さないというなら、そのままにしておけばいいのである、というのは仮に安倍は勝利したとしても、憲法で信を得たと公然と言うことはできなかったからである。もしアベノミクスで信を得たと言うしかないなら、参院選後いくら安倍でも、ぬけぬけと、自分は憲法で信任を得たかに厚かましく振る舞えたかどうかは怪しいものである。

 仮にそんな風に振る舞うなら、労働者、勤労者は安倍に対して、参院選では憲法で立場を問われていない、安倍が憲法改定をやるというなら、ちゃんと選挙で信を問えと言い、安倍を糺弾できるのである。

 だが民共が頼まれてもいないのに、憲法が“争点”だと騒ぎ立てることで、事実上それが“争点”ということにされたのであり、そういうことになってしまったのである。安倍にとってはほくほくものだが、民共やマスコミ・リベラルや市民派ほど愚劣な諸君はいないというしかない。

 我々は憲法論議を恐れるものではなく、また改憲策動を恐れなくてはならない理由も何もない。というのは、安倍政権のそんな挑戦を受けて立ち、そんな策動を打ち破っていく決意と準備があるし、またそうした準備と闘いをさらに強化しつつあるからである。

   

主権者教育=中立性論の欺瞞

 18歳以上に選挙権を付与することになって、にわかに「主権者教育」ということがいわれ始めた。それと共に、再び「教育の中立性」といったことが、自民党や反動派によって強調されている。

 そもそも「政治的中立」とは何か。自民党や安倍政権や反動によれば、彼らの見解に反する教育はすべて「中立を犯している」と言うことである。

 教師の「個人的な見解」は駄目だというが、教師が何を言っても、教師の見解をいうしかないのだから――政府や国家の見解だけをオウムのように繰り返せというなら、話は別だが――、その意味では、教師の見解を言うなということは、教師は政治的な発言は一切出来ないということ、教育するなというに等しい。

 しかし教育の本質的な契機の一つは、事実と真実を明らかにし、子供達に伝達することにあるとするなら、教育の基準も、つまり「主権者教育」も、教師に何も云わないこを誣いるのではなく、ただ真実のみを語れというべきではないのか。

そして教師も又堂々と、自信を持って真実を明らかにする「主権者教育」を行い、教師としての責務を果たすべきではないのか。

 もちろん、真実と真理とは何か、何が真実かということになるなら、それはまた自ずから別の問題であって、偽りをこととする安倍政権と、労働者は決して一致しないのだ

   

【飛耳長目】

★共産党は香川を除く全ての一人区で候補者を降ろし、野党と市民の共闘のために大きな犠牲を払い、無私の貢献をしたという美名によって、13年の8議席(比例区5,選挙区3)から12議席へと、13年を大きく超える躍進を夢見、比例区850万票、9議席獲得という、「取らぬ狸の皮算用」にふけった★志位は「野党共闘の勝利という大義のために、真剣かつ誠実に努力」することで「国民の信頼と共感を広げ」、「比例区を軸」とした共産党の「躍進の大波」を作りだそうと夢見たのである。一人区における「真剣かつ誠実」や善意の代償として、複数区の選挙区に比例区票積み増しのノルマまで課せられた★選挙区候補は、「比例区は共産」をわめき、赤旗には、共産党は選挙区で譲ったのだから、当然比例区は共産党に投票するといった、民進党支持者や“市民”等の声で毎号埋め尽くされたといっても言いすぎてはなかった★結果は周知のように、比例区得票は600万、共産党の皮算用よりも250万も少ない惨敗、当選者も前回の8から12に増えるどころか、反対に6に減ってしまった。予想外の敗北であった★俗物志位の「誠実さ」を売り物にして得票を増やそうという戦術は、共産党の政治の本質を、無内容で、無力なプチブル政治、スターリン主義的なドグマ政治であって、労働者、勤労者の広汎な支持を決して獲得できないことを決定的に暴露した。(鵬)

   
   

【主張】

労働者解放はあの世≠フ話?
宗教政党≠ノまで堕落する共産党

 参院選中、志位は、安保条約や自衛隊等々について、それらは本来は憲法違反で反対なのだが、しかし今は否定していないとやっきになって言い立てた。

 綱領などでは、それらを否定しており、一掃を謳っていると批判されると、反対は今の段階においてであって、日米安保条約や自衛隊も天皇制も「国民の合意のもとで」のみ、「国民の総意によって」のみ廃棄するのだ、弁解や屁理屈に明け暮れた。

 要するに、本心は反対だが、今は反対しないと言い続け、プチブルや自由主義的ブルジョアに媚び、そんな日和見主義的で、動揺する階級や階層の支持を取り付けようと四苦八苦した。 

 彼等のこうした立場は、現実の政治闘争の中では、最悪の日和見主義と、ブルジョア勢力への奴隷的屈従として現れている。

 共産党は香川選挙区で民進党などとの5項目の選挙協定を結んだが、その中で、何と「今日の日本社会に必要なのは社会主義的変革ではなく、資本主義の枠内での民主的改革であり、私有財産の保障が基本となる」とか、「日米安保条約の廃棄や自衛隊の解消という共産党の政策は野党共闘に持ち込まない」とか、「天皇制を含めた現行憲法の全条項を守る。天皇制のあり方は、国民の総意によって決せられるものである」といった、目を疑うような条項が並んでいた。

 共産党のいつわりの詭弁は、安倍によってさえ、「自衛隊は違憲だと言いながら、しばらくはいいのか。違反だったらすぐ廃止すべきだろう」(「ニコニコ動画」の討論会)と攻撃され、志位は辛うじて、「私たちは、国民の合意を経て自衛隊を段階的に解消していく」と空虚な反論をしたにすぎなかった。安倍はまた、「共産党は『自衛隊は憲法違反。将来は解散する』と言いながら、『災害があったら出動せよ』『急迫不正の侵害には命をかけろ。ひどいじゃありませんか』(大分での街頭演説)と、共産党のご都合主義を攻撃するに急だった。

 要するに、共産党は私有財産制度や資本主義に反対するのは、遠い遠い先のことであって、いまはそれを肯定し、擁護し、そのために闘うというのである。日米安保条約も自衛隊も――共産党が言う「人殺し」の組織も――、天皇制さえも支持し、持ち上げるのであり、それを否定し、一掃するのははるか先の話、民主連合政府か野党共闘政府か知らないが、“民主革命”の後だそうである、いや、そこでもまだダメで、将来、社会主義、共産主義の社会になってからだというのである。

 天皇制も憲法が謳っているのだから弁護しなくてはならないのである。まさに転倒した観念論である。これではまるで、共産党とは一種の宗教組織、“憲法教徒”の集団でしかない。憲法は歴史的、現実的な一つの政治文書――必ずしも重要でなくもない――ではなく、彼らの絶対物、“永遠の真理”が書き記された神聖なる聖書やコーランや仏教の教典というわけである。

 搾取と差別が一掃され、労働の解放された社会で、軍隊などがなくなるのは当たり前の話で、問題は、今の資本の支配する社会において、軍隊は当然だとか天皇制も支持するなどと言っていて、資本の支配や安倍政権と闘えるはずもないということである。

 まるで宗教の天国幻想、ユートピア幻想と同じような話で、かくして共産党は徹底的な現実肯定の政党として――労働者、勤労者にとっては、まさに公明等々と同様な敵としてしか言いようのない反動政党として――出現し、此岸におけるのではなく彼岸における、この現実社会の改革によるのではない、あの世における労働者、勤労者の幸福や解放を約束するのである。

   

政治野心実現につながらず
日本破壊する修正<Aベノミクス

 参院選で勝利した安倍は、アベノミクスは信認を得たので、アベノミクスを「加速」させ、デフレ脱却を本物にする、とばかり、新しい「経済政策」を矢継ぎ早に主張し、持ち出している。その中心は10兆円とも、それを超えるともいわれる巨額の補正予算であり、大規模な公共事業への財政資金のバラまきである。安倍は「アベノミクスを加速する」としながらも、それはこの3年間余執心してきた金融緩和ではなく、今や財政膨張という、自民党にとっての“先祖返り”ともいえる政治に逆戻りするかである。安倍はそんな修正アベノミクスによって何を策し、どんな政権維持を策しているのであろうか。

 安倍は、アベノミクスは成功しており、また今後も成功していくといった半デマ政治を駆使して参院選を乗り切ったが、そんな勝利は国民の過半がアベノミクスの「成功」といった神話を信じたからではなくて、単に民共がナンセンスであり、労働者、勤労者でさえ、そんなインチキ政党をほとんど信じていないからであるという真実をよく分かっていたのである。

 だからこそ、安倍は今年に入ってからの株安や円高や大企業の経営の悪化などの経済悪化の気配に、大きな危機意識を抱くのである。アベノミクスという安倍の金看板の化けの皮がはがれていくなら、安倍政権への「期待」や支持がたちまち失われていくだけではない、バブルをあおって手にしたような、そんな仮初めの「成功」が、逆に強烈な安倍政権への失望や反発や憎悪にさえなって襲ってくることを予感するのである。

 まさにそれゆえに、参院選で勝利した安倍はまず“経済政策”に取り組まなくてはならないのであり、再び株価高騰やデフレ脱却や、そんなものに対する「期待感」の高揚を演出しなくてはならないのだが、金融緩和政策の無力さが明らかになった今、悲しいことに、そのために古色蒼然たる、使い古された財政膨張政策といったものしか思いつくことができないのである。

 しかし1990年のバブル崩壊後、膨張政策は「経済政策」として使い古されただけでない、財政悪化ばかりが進行して、経済危機、国家危機にさえ発展するとして自ら否定し、棚上げしようとした政策に、再び逆戻りし、依存するというなら、それはすでにどんな「経済政策」も無力であるということにならないのか。

 しかも安倍は10兆円を超えていくような補正予算のための財源は、財政投融資を活用するとか、何兆円というような国債(国家の借金)に頼ると言い始めている。

 国家借金はすでに1千兆円をこえ、その返済の展望は全くなく――また政府にも政治家にも、役人さえも、返済するといった殊勝な意思はどこにも見られない――、現実的な国家破産が迫っており、ただアベノミクス流のやり方、つまり日銀による事実上の国債の直接引き受けによってのみ、実際の破綻を糊塗隠蔽(こといんぺい)し、パニックを先延ばししているにすぎないというのに、である。

 安倍政権は参院選直前にも、消費増税の再延期で、自ら公約してきた「財政再建」を事実上反古にしただけではない、むしろ国債の増加(借金“加速”政治)に踏み切ることで、アベノミクスではなく国家破産を“加速”するのである。

 そんな状況の中で、国債の発行はもちろん、財政投融資の活用といったことが、国民経済と国家財政に何をもたらすのか、安倍は反省しないのである。財政投融資もまた、その財源は国家の借金で、つまり国債の発行で賄われるのである。財政投融資は返済が保証されているといったことは気休めであり、もしくはごまかしでしかない。

 リニアなどの公共事業に巨額のカネをバラまいても、土建産業などが肥大化することはあり得ても、国民経済そのものの健全な「成長」が可能になると必ずしもいえないことを、我々は田中角栄の時代などをへて経験してきたのではなかったか。

日本は今、世界的な「成長企業」としてほとんどめぼしいものを生み出していないで、辛うじて自動車産業くらいが目立っているにすぎない。電機産業が衰退して行きつつあるのは、日本の産業の現状の象徴である。

日本経済の頽廃し、寄生化し、行き詰まってきたことは、政府や国家が金融緩和だとか、財政膨張とかに依存し、傾斜して来たことと決して無関係ではない。

 アベノミクスはカネをバラまけば経済活動は活性化すると称して、日銀をテコに金融の量的緩和の政策を強行し、あるいは低金利政策――その極限のマイナス金利政策――を実行に移してきたが、そんなものによって銀行が貸し出しを増やし、企業が設備投資を行い、国民の消費が膨れあがり、かくして安倍が目ざしたデフレ脱却や「経済成長」や「財政再建」が可能になるというおとぎ話は現実のものとはならなかった。

 企業はカネがあれば設備投資をするというものではなく、設備投資をして利益を上げうる条件がなければ、設備投資をするはずもないのである。

 カネについていえば、大企業はこの間「内部保留」を、つまり手持ちのカネをいくらでも増やし、積み上げてきたのであって、日銀や銀行からカネを借りる必要などますます無くなっていたのであり、したがってそんなときに、量的緩和や低金利によって企業にカネをふんだんに供給し、「景気回復」や「経済成長」につなげるといった、トンチンカンな経済政策ほどに愚劣な政策を思いつくような人がどこにいたであろうか。安倍一派やリフレ派経済学者を除いて、誰もいなかったことだけは確かである。

 安倍はアベノミクスの重点を金融緩和から財政膨張に移すことによって、アベノミクスの「加速」が可能だと信じ、まずそんなやり方で「デフレ脱却」や「経済成長や「財政再建」までも可能にし、そしてそんな盤石の経済的背景を勝ち取ってから、彼の政治的な野望実現――憲法改定、9条の修正あるいは廃棄等々――に乗り出そうというのであろうか。

 しかし安倍は何か根底から間違っていないのか、そんな安倍の“戦略”は幻想であって、アベノミクスの「加速」など空文句ではないのか、金融緩和が行き詰まったと同様に、財政膨張もまた行き詰まり、というよりむしろ財政崩壊や経済のさらなる衰退や停滞や寄生化が、あるいは劇的な破綻が、パニックさえもがやってこない保証はあるのか。

 安倍はすでに財政崩壊の危機が成熟し切っていることさえ自覚していないが、しかしマイナス金利政策つまり国債の高価格維持の政策は限界に来ている。アベノミクスのカギは、量的緩和であり、低金利政策だが、国債が暴落していくなら、そんな政策は不可能になるばかりではない、国家の破産が現実のものとなり、顕在化するが、そんなことになれば日本は第二のギリシャに転落するしかないのである。そうした危機が迫っていることを安倍は確認しているのか、確認した上で、「財政出動」を叫んでいるのか。

 日本の政府は、自民党の政府は言うまでもなく、民主党などの野党の政府もまたどんな違いもなく、年々巨額の借金を積み重ねてきた。そして今また安倍も「財政出動」をわめき、そんな邪道の道に再び踏み込もうとしている。

 本来なら、現在のような借金膨張政策を取り続け、拡大していくなら、国債は金融市場に溢れ、しかも国債の信認は低下していくのだから――政府に借金を返す能力も、その意思もないのだから――、国債の価格は大暴落して当然である、しかし「世界の七不思議」の一つかどうかは知らないが、何と日本の国債の信用は決して低くはなく、世界中から買い手が殺到し、かくして円為替は安くなる代わりに高くなるのである。

 理由はただひとつ、政府が“無制限に”発行する国債を、日銀が片端から“無制限に”買いあさり、買いだめしていくからである。

 もし政府や日銀が共謀して、経済や金融の“法則”を、あるいは市場の法則や競争による“規制”を無視し、それを無にし、破壊するような、途方もない政策を続けるなら、国債価格は暴落する、つまり金利は一挙に跳ね上がり、国家は破産する、というのは、そんな高い金利で国債を発行することができなくなり(政府にとってすでに必要不可欠となっている、借金が全くできなくなるということだ)、そしてその結果、財政は崩壊し、社会保障の諸制度つまり年金も医療も解体し、機能不全になり、国民の生活は破綻し、あるいは経済の全体もまたガラガラと崩れて行きかねないのである。

 安倍は修正アベノミクスをさらに「ふかし続け、加速」して、自らの政治的野心を強行し得る経済的な状況を、つまり繁栄する資本主義をもたらし得ると考えているのだろうか、そうだとするなら、そんなものは決してやって来ず、アベノミクスの失敗と共に安倍は挫折し、没落するしかないと我々は断言する。邪道の半デマ的政治に、ろくな終末以外が待っていることはないし、あり得ない。そしてそんなときは決して遠くはないのである。

 安倍に残された道は、凶暴化するファシズム的体制以外ないだろうが、それは安倍によってなされるとは限らないにしても、ブルジョアや反動派にとって必然の道である。

 しかし彼らのそんな試み、つまり「世界の中心で輝く」彼らの国家、1930年代のような軍国主義の国家を建設する試みは決して成功しないのである、というのは、そんな形の歴史の再現を労働者、勤労者は決して許さないと固く決意しているからである。

   
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