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マルクス主義同志会機関紙
『海つばめ』

◆隔週日曜日発行/タブロイド版4ページ
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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
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  メールでの申し込みも可能です。

まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1274号 2016年4月10日
【一面トップ】衣更えの民進党はどこへ?――民主党と同じで内容は空っぽ――雑居党の上、協調勢力とも不協和音
【主張】ハムレット岡田の悩み――消費増税に賛成か、反対か
【コラム】飛耳長目
【二面】来るところまで来た!?――財政金融の複合で狂乱政策――異次元の金融緩和+異次元の財政膨張
【三面】一切の差別撤廃、「賃金制度の廃止」を高く掲げよ――「同一労働同一賃金」は搾取隠蔽の決まり文句
【四面】17年間に渡り果敢な先駆的闘い――マル労働・社労党の選挙闘争の全て
※『海つばめ』PDF版見本

衣更えの民進党はどこへ?
民主党と同じで内容は空っぽ
雑居党の上、協調勢力とも不協和音

 3月27日、松野維新と合同して、民主党は民進党に衣更え(ころもがえ)した。もちろん内実にはどんな違いもない。民主党に合同した維新派も、自公と手をたずさえて消費増税推進に走る野田政権に反発して、民主党を離れた連中の出戻りである。新綱領の冒頭に、「結党の理念」として、「自由」、「共生」、「未来への責任」といった、毒にも薬にもならないような抽象的空文句しか掲げられないような党に、どんな「未来」もないことだけは確かである。

 新綱領は、「(私達の立場)我が党は、『生活者』『納税者』『消費者』『働く者』の立場に立つ」と自らの階級的な立場を自ら語って恥じないような党である。

 こうした立場は自民党の「国民的な」立場と基本的に同じであり、それにいくらか“市民主義的な”味付けを施したようなものである。20年前、鳩山と菅(直人)が結託して、“市民主義”の党として民主党を作って以来の“伝統”を引き継ぐものである。

 民主党は政権を握って以来、鳩山、菅政権の後、野田政権に至って、この党は結局“ありきたりの”ブルジョア政党に“進化”し、市民主義の最終的な政治的破綻を暴露したのである。

 市民主義と国民主義は決して別のものではなく、国民主義の“地方版”もしくは矮小版であることが、つまり「市民」概念とは「国民」概念の、地域的な、あるいはプチブル的な変種でしかないことが暴露されたのである。自ら「国民」を名乗ることをはばかる諸君が、「市民」を自称するのだが、それは彼らの階級的な立場を告白しているも同然である。

 今また民進党が、市民派や市民主義化した共産党と結びつき、その応援や後援を得て誕生したのは決して偶然ではない。

 安倍政権に替わる政権を目指せ、「三度目の正直だ」などと、朝日や毎日の自由主義的マスコミにおだてられ、励まされているが、「二度(新進党を中心とした95年の細川政権、09年の民主党政権)あることは三度ある」、つまり仮に、今年の夏、同時選挙が行われ、瓢箪から駒で民進党あるいは民進党を中心とした政権が生まれたとしても、小選挙区制のもとでの過去の二度の経験と全く同じことが繰り返されるだけであることは100%確実である。

 参院選単独であれ、同時選挙であれ、民進党は勝てないが、自公勢力も3分の2に遠く及ばないが過半数を超える勢力は維持するといった結果となる可能性もまたあり得る。

 安倍は2018年9月、自民党総裁2期目の期限が切れ、三選を認めていない自民党の党則によって自動的に総裁の座を去り、したがってまた首相の座から降りなくてはならない。その時まで、国政選挙は衆議院に解散がなければ行われない。

 彼は自分の力で憲法改定を行い、9条を変えるのなら、後2年の余裕しかない。今年の夏、同時選挙に打って出て、さらには2年余の後、自民党の総裁をさらに3年延長する策動をやり抜く以外に、彼の野望は断たれかねないのである。憲法改定の課題を自分がやり抜かなくてはならないという口実に、自民党の党則を修正して総裁3期を可能にし、あと数年、権力の座に居座る策動にふけっているのであろう。

 彼はそのために、そんな展望のもと、同時選挙を強行し、権謀術数の限りを尽くそうと決意しているのは十分にあり得ることである。

 もちろん、野望をたくましくする安倍政権にたいして、民進党や、民進党を中心とする“野党”や民共連合は無力である。

 というのは、その内部が分裂しており、内的な統一性と団結と結束がなく、てんでバラバラだからである。彼らの間では、重要で、中心的な政治的な立場や政策において決して一致がないだけではない、むしろ対立的でさえあるからである。

 参院選で一つの中心的な“争点”になる憲法改定についてさえ、野党の中で必ずしも一致していない。岡田民進党自身、憲法改定そのものに反対ではなく、ただ「安倍政権のもとでの」憲法改定に反対であるにすぎない。新綱領でも、憲法改定は言わないとしても、「未来志向の憲法を構想する」と、わけの分からない、あいまいなことを言っているにすぎない。

 共産党は断固たる憲法改定反対派であることを装っているが、「日本が独立したあかつきには、国家にとって“自然権”である自衛権を持つのは当たり前である、だから現行憲法も当然に変える」と一貫して言いづけてきた党であり、敗戦後の憲法国会では、9条の“絶対的平和主義”を口実に、現行憲法草案にまさに頑強に反対したような政党である。

 消費増税についても、共産党は反対をいうが、民進党は、安倍自民党に対して、自公民で決定した10%への消費増税をしないなら、約束違反で許されないと、むしろ安倍政権の消費増税延期を批判し、反対するような党である(松野らは共産党の大喜びしそうな消費増税凍結法案の提出を主張するが、岡田らはしぶっている等々)。

 民進党内のブルジョア派は、かつて自民党と共に、消費増税を強行するなど恥ずべき転向に走ったことを恥じるどころか、開き直り、来年4月の2%消費増税を断固貫徹せよと言うかである。

 岡田民進党は「軽減税率を前提とした消費増税は認められない」と、一見して消費増税に反対するような「統一見解」を謳うのだが、こんな発言の意味は、軽減税率抜きの消費増税をやれということである。つまり民進党は、軽減税率をすれば数兆円の消費増税が1兆円も2兆円も目減りするから、軽減税率はダメだと言っているにすぎない。

 貧しい労働者、勤労者、とりわけ低賃金の女性労働者を裏切る、とんでもない政党というほかない。

 そして消費増税に反対すると叫ぶ共産党が、こんな岡田民進党に追随し、たいこもちの役割を喜々として演じていることこそ驚きの「ビックリポン」である。

 そして民進党の中には、安保防衛政策で安倍政権と同じような観点に立つ、保守派――前原とか細野や長島ら。野田もここに入れてもいいかもしれない――が勢力を保ち、共産党は共産党で、今や自衛隊や日米安保条約体制や天皇制までも容認し、そんな共産党にとっての「大義」を次から次へと投げ捨てつつある。

 共産党は今や、1990年代後半、自民党と連合して政権につき、村山首相の下、同じように自衛隊や日米安保条約体制肯定に転じた社会党――その結果、次の総選挙で労働者、勤労者から見捨てられて大敗し、自民党からも簡単に袖にされて、党として消滅してしまった社会党――の後を追い、その二の舞を演じつつあるかである。

 岡田は、「最近、首相から同一労働同一賃金や多様性などの言葉が漏れて、首相に最もふさわしくない言葉だとびっくりした。民進党の基本的な考え方にかぶせて来ている」などと悠長に語っているが(日経新聞3月31日)、しかし民主党の謳う同一労働同一賃金の言葉が単なる言葉だけであって、安倍の言うことと現実には同じようなものだからこそ、安倍が簡単に口にすることができ、かくして民主党の政策的、思想的な“基盤”を容易に掘り崩すことができるのだという真実に気が付いていない。

 同一労働同一賃金のスローガンだけではない、「児童手当の拡充」だとか、「給付型奨学金の創設」などを謳っても、すぐに安倍政権によって政策的に「かぶせられる」だけであり、しかも安倍政権は権力を握っているが故に、実際的に予算を割いたりしてどんどん実行する(わずかのカネを割いて、実行している振りができる)のだから、ますます民進党の影は薄くなるばかりである。最低賃金の引き上げでも、保育・介護職の待遇改善でも同じようなものである。

 今では民進党が持ち出すような矮小な改良政策のための予算は、安倍政権がいくらでも手当てできることを民進党は忘れている、というのは、今のご時世であれば、政府はいくらでも借金をして(国債を増発して)、カネを手にすることができるからである(もちろん将来の財政崩壊と国民経済破綻を考慮しない限りのことであるが)。

 民進党は何を考えてか、「社会保障を高齢者重視から現役世代重視に転換する」などと、余りに愚かな主張を押し出している。以前、高齢者の社会保障軽減に反発して、「高齢者は死ねということか」と民主党は言わなかったか。

 まるで民進党にとって大切な高齢者の怒りや反感を買って、自ら参院選敗北を進んで招き寄せたいかにしか見えない。大戦や敗戦後の困難な時代を生きてきた、今の高齢者は、かつて社会党などを支えた労働者、勤労者たちであり、伝統的に“革新”勢力であったが、民進党は彼らの反感を買って、選挙で負けたいのであろうか。

 安倍政権が高齢者の支持をかき集めようと、3万円のバラまきなど露骨な買収政策に励んでいるというのに、である。

 高齢者問題の核心は、どんな高齢者も働く事が可能な間は――もちろん、年齢に応じた配慮のもとで――、皆働くことで、自らと社会の生活を支え、かくして“現役層”といわれる青年、壮年層の、“子育て世代”の負担を減らすことであり、また自ら働くことが叶わなくなったら、社会全体の負担で“至れり尽くせりの”晩年を保証されることであって、高齢者層の社会保障重視を“現役層”の社会保障重視に移すと言った、愚昧で、ピント外れの問題ではない。

 高齢者問題の一つの核心は、年金制度である。まさに現役時代の所得の不公正、不平等をそのまま受けつぎ、拡大したような現行の年金制度は廃止するか、根本的に再編するしかないのだが、民進党はそんなことはおくびにも口にしないのである、できないのである。

 彼らがせいぜい“中産階級”の党ではあっても、低所得の、貧しい労働者、勤労者の党ではないからである。

 こんな余りにも愚かな党が、あるいは野党連合戦線が、安倍自民党に勝てるなどということはないし、あり得ない。

 そして哀れな共産党の志位は、社民党の吉田や小沢らと共に、統一名簿や「ギブアンドテイク」の共闘に応じないで、民進党にのみ利益が行くような、一方的な共闘関係に「ここは相互支援だ」などとブツブツ文句を言い、これでは自分たちの立つ瀬がなく、党内外でメンツも保てず、権威もなくすとグチりながらも、結局は岡田や枝野らに追随し、奴隷的に奉仕するしかないのである。

 岡田に、そんなことをしたら党内の前原ら反動派がいうことを聞かなくなり、共闘路線そのものが崩れるからとか、保守的な票、“反共的な”票が逃げて、自民党を利することになるから、と“痛い”ところを突かれるからであり、そんな岡田に反論する勇気も信念もないからである。

 みじめな共産党よ、社民党よ。

 すでに過去の時代の遺物と化したこのような諸君が、再び“蘇る”ことは決してないし、あり得ないのである。



ハムレット岡田の悩み
消費増税に賛成か、反対か

 民進党の岡田がまるでハムレットのように迷っている。安倍と共に、否、安倍に先駆けて、消費増税の凍結を声高に叫ぶべきか、それとも安倍の消費増税延期を公約違反として糺弾し、安倍政権打倒の一契機にすべきかで決心がつかないからである。

 もちろん彼が迷うのは、消費増税は民主党が主導し、自公民で決めたことであり、税と社会保障の「一体改革」は野田や岡田の持論であって、簡単に再延期など言えないからである。

 かくして岡田は、一方で、消費増税凍結を唱える党内の松野や“左派”からの圧力に耐え、他方では、消費増税によって財政再建も何とかせよという自民党やブルジョア勢力にも配慮しなくてはならない。

 そして安倍もまた再び消費増税凍結に走ろうとする時、彼の立場はますます複雑とならざるを得ない。彼は安倍を非難する。

「(安倍は)14年の衆院解散時に『次は必ず引き上げる』と断言した。延期なら明らかな公約違反で辞任に値する」。

 岡田は安倍を公約違反で批判することはできるが、しかし消費増税凍結では非難できない、というのは、党内や野党には、安倍の凍結を事実上肯定し、歓迎する連中が、共産党をはじめうようよいるからである。

 岡田は本心では、安倍が自公民の消費増税の共通の立場や同意を「政局のために」安易に裏切るのを不快感をもって見ている、“まじめな”ブルジョアなのである。

 だからこの問題を単なる「戦術論」として議論する安倍にも、党内の松野らにも、岡田は不快感を隠そうともしない。

「(政府・与党側の)『先送りして解散すれば有利だ』という議論と、野党側の『先送り話を首相より先に言った方が勝ちだ』という議論は、いずれも間違っている。政治の質を落とす」

 資本の体制から一歩も出て考えることのできない岡田にとっては、増税とりわけ消費増税なくしては、財政をいくらかでも安定したものとして確立する方途を見出すことはできない。

 しかし他方では、彼は行政改革やバラまき政治のまま消費増税に走るのにも抵抗心がある。またデフレが深化していくときに、消費増税を先頭に立って強行し、経済悪化の場合の責任を取る勇気もない。

 仮に消費増税が来年春行われるにしても、再度の延期になるにしても、民進党のヘゲモニーによってでなく、安倍政権によって行われるに越したことはない。それならいずれにしても民進党の責任が問われることはないのである。

 だから岡田は消費増税か、先延ばしかの間で迷い、安倍政権の出方を見てから、ギリギリの態度決定をしたいのであろう。

 消費増税を巡るハムレット岡田の逡巡は、半ブルジョア政党としてのこの党の本性から出てきている。

 市民主義政党として、消費増税反対から出発しつつも、ブルジョア的現実政党に行き着いた民主党野田政権は、資本の党と同様に大衆収奪による財政再建の重要性を自覚し、自公に代わって、あるいは自公とともに消費増税路線に舵を切ったのだが、それは党内の、労働者的部分はもちろん、市民主義的部分からも反発を買って来たのである。

 岡田は、党内の“左派”よりも、自民党の谷垣らのような連中と一緒の時にこそ、本当に落ち着き、我が家にいるようなくつろぎ感に浸れるのである。

 そして志位は、岡田民進党が、消費増税問題でもTPP問題でも安全保障・防衛政策でも、共産党や社民党とは違った、対立的な立場に立ったとき――それは大いにあり得ることなのだが――、いかにして彼らとの協調路線を守ることができ、あるいは、選挙で民進党の候補者を応援して国会に送り込んだ責任を取ることができるのか。


一切の差別撤廃、「賃金制度の廃止」を高く掲げよ
「同一労働同一賃金」搾取隠ぺいの決まり文句

 安倍は参院選に向けて、労働者とりわけ非正規労働者の支持をかき集めようと、例によって口先きだけ、言葉だけのサービスに乗り出し、盛んに「同一労働同一賃金」を実現する、法改正も行うと大張り切りである。法改正前にも、その実現のための「指針」を作るとして、その検討会の初会合を3月23日に開く等々、あわただしくアッピールにせいを出している。指針には、「同一の職務内容であれば、同一の賃金を支払うことが原則」と書き込むという。しかし法改正といっても、参院選のはるかに先の話、いつものように労働者の願望や期待感をかき立てて、参院選でただ票がほしいだけという、その本音が透けて見えている。我々もまた、「同一労働同一賃金」要求の本質と限界を検討して見ることにしよう。

 ◆流行の「同一労働同一賃金」のスローガン

 同一労働同一賃金のスローガンは本来、民主党が掲げて来たものであり、非正規労働者が4割にも達し、また女性労働者の低賃金と貧困がはびこり、労働者の中であらゆる賃金差別がはびこるなか、参院選の一つの“争点”として押し出してきたものである。

 民進党などは、参院選で、同一労働同一賃金の公約化と実現を迫り、さらに同一労働同一賃金の要求と共に、「同一価値労働同一賃金」の要求――異なる職種間でも、同じ価値の労働には、同じ賃金を支払う――も打ち出してきている。

 そして安倍政権は、民主党などの要求に対抗し、民主党のこうした闘いを無力化しようと策動し、「一億総活躍社会」実現構想の中にそのスローガンを取り込み、同一労働同一賃金の実現のために安倍政権が先頭に立つかに派手に振る舞い始めるのである。

 しかし同一労働同一賃金の観念は依然としてあいまいであり、「同一の職務内容であれば、同一の賃金を支払うことが原則」といった、卑俗な意味以上のことは何も語られていないのである。

 ◆同一労働同一賃金の通俗的観念

 同一労働同一賃金の要求、あるいは概念は、その意味は何であろうか。

 ここではまず、言われている「同一労働」とは何かが問われなくてはならない。

 一般にブルジョアや安倍政権や、さらには組合主義者がこの言葉で意味するものは、「職種」といったことであって、つまり同じ職種、同じ“仕事”についているものは、同じ賃金にすべきであるといったことである。同じ仕事をしていても、正規と非正規の労働者(フルタイムとパートの労働者)、男子の労働者と女子の労働者等々で賃金が違うのは不公平、不公正であって、同じものにすべきだといった平凡なことである。

 またブルジョアや安倍政権は、「仕事」の違いということの中に、正社員や管理的仕事を担う者には責任とか、管理的な役割がついてまわるのであって、そこでは賃金に差がついても当然といった理屈も持ち出している。こうした理屈は、結局は経営者や管理者は普通の労働者の何倍、何十倍の“賃金”を得て当然という観念に行き着く。

 そこで我々はさしあたり、ブルジョア的な仕事にも高給が支払われるといった観念を除外して議論を進めることにしよう。というのは、こうしたものは、今議論されるべき、同一労働同一賃金の問題とは区別されるからである。

 同一労働同一賃金の観念として一般的に言われ、また想定されるのは、同じ「労働時間」に対しては同じ賃金が支払われるべきだというものであろう。ここではこの観念の根底にあるのは「労働時間」であって、「職種」はもちろん、「職能」とかいった契機は除外されているのである。

 普通に考えるなら、「労働時間」こそが規定的であって、「職種」とか「職能」とかで考えようとすると、すぐに不合理になり、適用不能になるのは明らかである、というのは、仮に同じ「職種」なら賃金が等しいと言えるとしても、では違う「職種」なら、賃金が違うかというと、そんなことはないし、あり得ないことは誰でもよく知っていることだからである。

 賃金が「職種」に対する支払いとして現象するというのは、ブルジョアの古くからの妄想であって、「同一労働」の「労働」を「職種」であると規定することのナンセンスさは、ありとあらゆる種類の「職種」(ブルジョアたちはしばしば「仕事」といった、あいまいな言葉でいうが)に対して同一の賃金があり得ることからも、簡単に確認することができる。

 旋盤工と塗装工は賃金が違う、あるいは違わなくてはならないということには決してならないのである。

 両者は労働力の高級度が違い、したがって具合が悪いというなら、塗装工と同じような単純労働をいくらでも想定することができるだろう。ここでは、「具体的な有用労働」ではなく、「抽象的な人間労働」、単なる人間労働力の支出としての労働だけが問題である。

 つまり単純労働なら、どんな「職種」であれ、賃金は同一であり、またむしろそれが一般的である。「職種」つまり「具体的有用労働」によって、賃金が決まるといったブルジョアや安倍政権や組合主義者たちの観念の無意味さと途方もなさは一目瞭然である。

 つまり同一労働(職種、“具体的労働”)同一賃金といった観念は、最初から成り立ち得ないのである、あるいはブルジョアたちが自分の必要に応じて使い分ける、ごく卑俗で、ご都合主義的な観念としてしか存在し得ないのである。

 例えば、ある仕事、あるいはある職場で、男性と女性が、あるいは正社員と非正規労働者が同じ仕事をするなら、そこに賃金差別があってはならない等々、である。

 ◆では賃金は何によって規定され、決まるのか

 19世紀頃のブルジョアたちは――したがって、古典派経済学派もまた――、賃金は労働者の労働(労働時間)に対する対価と考え、またそれを疑うことはなかったが、現代のブルジョアたちも、基本的に、それ以上の進化した、別の観念を持っているわけではない。彼らは今も、賃金とは労働者の「労働(労働時間)」に応じた支払いであると考え、またそうした観念のもとに行動する。

 そして当時の組合主義者も、そんな観念を前提に、「公正な1日の労働に対する、公正な1日の賃金を」と要求したのであったが(現代風にいうなら、同一労働同一賃金の要求である)、もちろんこうした要求はマルクスによってこっぴどく批判された。

 なぜか。

 それは、賃金は労働力の支出としての労働に支払われるのではなく、労働者がブルジョアに売り渡すことのできる唯一の「商品」である労働力(労働能力)に対する支払いであり、そしてその労働力の「価値(価格=賃金)」は結局は、労働力を再生産するために必要な労働時間、つまり労働者が生き、生活し、労働し、さらには子孫を残すために必要な消費手段(商品)を生産する労働(労働時間)に帰着するからであって、この労働時間は労働者が実際にブルジョアのもとで行うすべての労働時間とは違うのである。

 労働力の価格つまり労賃を規定する労働(時間)、労働力再生産のための労働(時間)は「必要労働」と呼ばれ、それは一般に労働者が資本のもとで実際に行う総労働よりも小さいのである。総労働は、労働者のために働く「必要労働」に加えて、資本のために、つまり剰余価値=利潤を生産するために働く労働(「剰余労働」、搾取される労働)を含むからである、両者の和として現れるからである。

 労働の生産力の発展がこのこと――剰余労働とその搾取――を可能にし、また必然化したのだが、資本のもとでの労働はそうした被搾取労働としてしか存在していないのである。

 だからブルジョアたち(組合主義者たちも含めて)が、何か労働者のすべての労働に対して支払っているかに装って、同一労働同一賃金について大騒ぎするのは、最初からインチキであり、ペテンであって、ただ自らの労働の搾取を覆い隠すための策動でさえあるのである。

 同一労働同一賃金の観念で言えるのは、ただ労働者の「必要労働」部分のことでしかなく、せいぜい労働者が実際に支出している労働の“比例概念”として言えるだけである、つまり労働者の支出した労働時間の中での、一部だけの問題、時間的比例の問題であるにすぎない。

 労働者はこの根本問題を断固として確認するところから、同一労働同一賃金の課題に接近しなくてはならないのである。

 同一労働同一賃金の問題は、マルクスが「公正な一日の労働に対して公正な一日の賃金を!」という労働組合主義者の要求スローガンを批判して、労働者は「賃金制度の廃止!」という「革命的な合い言葉を書き記すべきである」(『賃金、価格、利潤』国民文庫88頁)と主張したのと同じ立場で接近しなくてはならない。というのは、「同一労働同一賃金」の要求は、結局は、かつての反動的な組合主義者の「公正な一日の労働に対して公正な一日の賃金を!」というスローガンと本質的に同じものだからである。

 今同一労働同一賃金の要求は、ありとあらゆる賃金差別に反対するものとして提出されているが、その根底にあるのは、労働者が生活し、自らの労働力を再生産するに必要な賃金を要求することに帰着する、つまり労働力の「価値」(再生産費)に対する、“公正な”支払い要求である。

 そして労働力の価値が、労働力の発現の結果である消費手段全体の価値とは決して一致しないものであること、その消費手段全体は労働者の労働力を再生産するための必要労働を超える剰余労働を、つまり資本による搾取労働を含んでいることは労働者なら誰でも知っている、あるいは知っておかなくてはならないことである。資本が労働者を雇用するのは、労働者の剰余労働を搾取するためであるからこそ、つまり労働者の労働が賃労働として現れるからこそ、資本主義は資本主義である。

 ◆高級(複雑)労働(力)と同一労働同一賃金

 副次的、派生的な問題ではあるが、ここで、高級(複雑)労働(力)と同一労働同一賃金の関係という、もう一つの問題がかかわってきている。

 こうしたことが主要な問題ではないというのは、高級労働――むしろ「濃縮労働」、マルクスもいうように「強められた労働」とでも呼んだ方が適切かもしれない――の問題は、それが、結局は単純労働の問題に還元されるからである。

 この概念は、労働力が単純な労働力ではなく、経験や習熟等々により、そしてまた養育費とか教育費などにより、労働力の価値が高まった場合、その労働力の発現である労働もまた、より強められた労働として、より大きな価値として実現されるということであって、1960年前後、共産党から離脱していった「構造改良派」――マルクス主義的自由主義者たち――がもてはやし、強調した理屈である。

 要するに技術者や“専門的な”労働者等々は単純労働者よりも、より高給をはんで当然というという理屈――マルクス主義の労働力の価値規定の概念に沿った――であり、まさに「高級労働者」の立場や利益を代弁し、代表するものであった。

 実際に、高級労働力の「価値」はより大きいのだから、高級労働者がより大きな賃金を手にするのは労働力の「価値規定」からして当然であり、合法則的というわけである。だからこうした理屈にたつ限り、「賃金差別」の正当化になり得ても、その一掃ということにはならないし、なり得ない。むしろ賃金格差はこうした観点からすれば、当然であるということになるしかなかったのである。

 それは、共産党の構造改良派の階級的な本性を暴露する論理となったのだが、こうした理論は今も、賃金は「職種」によって規定されると言った理屈、年功序列型賃金に対する、職種別賃金型とかの理論として、ブルジョアや安倍政権や組合主義者に共通する俗論の一つの根底ともなっている。

 我々は数十年も昔、こうしたブルジョア社会では合法則的に見える――ある意味では、「経済法則」としては正当な――賃金差別も、将来の社会主義社会では、養育費や育成費等々が社会化され、個人的な契機を無くすなら一掃され得るのであって、正当化され得るものではないと論じ、彼らのブルジョア的論理に反論し、抗議したのであった。

 ◆「具体的有用労働」による賃金規定?

 しかしまた、現在の同一労働同一賃金の議論と関連して、それは「具体的有用労働」に基づく賃金法則だといった見解が持ち出されているが、意味不明であり、基本的に間違いである。

 同一労働同一賃金の問題は、どう見ても「労働時間」に関することであって、それは抽象的人間労働の問題ではあっても、具体的有用労働の問題ではないのである。

 例えば、「同一労働同一賃金の一般的な観念は、具体的有用労働(「職務」のこと?)が同じなら、性別や年齢や正規・非正規を問わず、賃金で差別をしてはならないといった意味で使われている、具体的有用労働を考えると職種ごとに労働力の再生産費が違うから、同じ職種つまり同じ具体的有用労働なら労働時間に応じて対価を要求する、そしてこうした要求は改良的な要求であっても、それはそれとして意義を持つ」、といったものである。

 なぜここで具体的有用労働が顔を出さなくてはならないのか。マルクスのいう「高級労働」は「職務」の概念に帰着するものではない。両者は全く別の次元に属することである。

 そもそも「同じ具体的有用労働なら、労働時間に応じて同じ対価(賃金)を要求する」といえるのか。

 むしろ反対であって、同一労働同一賃金のスローガン、マルクスの時代で言えば「公正な1日の労働に、公正な1日の賃金」というスローガンは同一の職種の中で唱えられた――つまり経験、熟練で、自らの労働の“濃度”もしくは“強度”を高めた、熟練工のスローガンとして提出されたのであって、その意味では機械制大工業が発展し、単純労働が支配的な意味を持ってくる以前の、資本主義の初期の労働運動を反映するスローガン、したがってまた「保守的な」(マルクスの『賃金・価格・利潤』にある用語)労働運動のスローガンであったともいえる。

 だから、それは同じ職種の中の、“高級”労働者のスローガンであって、同じ職種なら同じ“高級”労働者であり、彼らのスローガンだ――つまり職種=「具体的有用労働」による賃金規定である――ということにはならないのではないか。

 そもそも「価値」に関する問題、つまり抽象的人間労働に関係する問題であるときに、「具体的有用労働」を持ち出すのは、重さの問題を長さの問題と一緒くたにし、同一の測定基準があるかに論じる危うさがある。

 ◆「価値」の問題であることの確認

 そもそも賃金は労働時間の全体の対価ではなく、必要労働時間の対価、つまり労働者の労働力の再生産を可能にするための労働の対価であるにすぎない。この二つの大きさは違っており、前者(全体の労働時間)は当然後者(労働時間の一部でしかない、必要労働時間)よりも大きい、というのは、労働者が自らの消費手段のために支出する労働時間の全体は「必要労働」と「剰余労働」の和だからである、全体の一部の剰余労働は資本によって「搾取」され、利潤として実現されるからである。

 だから、賃金は労働の対価であり、労働時間の長さに比例すると、ある意味で言えるにしても、それはせいぜい時間比例という意味で言えるにすぎない。

 労働者は10時間働いて5時間に対してだけ支払いを受け、また8時間働いて4時間分の支払いを受ける。こうした場合、労働者は確かに労働時間に比例して賃金を受け取っている、つまり同一労働同一賃金の実現であり、労働時間に対応した賃金である(かである)。

 しかしそう言えるのは、搾取率が一定と想定されているからであって、さもなれば、この両者の比例関係もいくらでも崩れるだろう。

 労働時間通りの支払いであろうと、その半分の労働時間への支払いであろうと、それらは立派に「労働時間に沿った」分配として現れるが、実際には後者の場合は、労働時間通りの支払いではなく、労働時間に比例した支払いである。二つの労働は搾取率が同じであり、したがって、全体の労働時間と、必要労働の労働時間が比例しているときにのみ、正確に時間比例の賃金として現れ得る。

 8時間の労働時間の労働者がおり、他方、4時間のパートタイムの労働者がいるとしよう。現在の日本では、パートの労働者の賃金はフルタイムの労働者の半分ではなく、4分の1ほどである。

 しかしオランダ等々では、こうした差別が法律で規制されているが、それは4時間労働のパートの労働者に8時間の労働者の半分の賃金を与えるべきといったことである。まさに「同一労働同一賃金」の原則の貫徹であり、「公正な労働に公正な賃金」の原理の貫徹でもある。

 しかしこうした時間比例は、実際には労働時間の全体に対してではなく、ただ必要労働のみに対してなされていて、搾取の現実は完全に隠蔽されているのである。

 ◆ブルジョアの見解

 ブルジョアの典型的な見解をチェックしたが、特徴的なものとして、日経新聞の以下のようなものが目にとまった。

 「仕事の内容を賃金決定の物差しとする同一労働同一賃金は、どれだけ付加価値を生み出しているかという生産性重視の考え方といえる。正社員の賃金を考える上でも活用の余地は大きい。

 賃金制度の年功色は以前より薄まってきたが、長く勤めるほど賃金が増える仕組みは根強く残っている。仕事の中身や難易度で賃金を決める職務給をもっと取り入れるなど、正社員に生産性の向上を促す一層の取り組みが必要だ。職務を限定した『ジョブ型正社員』の導入も手立ての一つだろう。

 こうした企業の改革を支援することが政府の役割だ。たとえば、職業能力を評価する仕組みを整えれば、職務給制度の設計に役立つ」(3月25日)

 彼らは現在存在し、ますます拡大する賃金差別については、ほとんど関心を示さず、むしろ正社員をいかに会社に縛り付け、“効率よく”搾取するかを考え、そのために同一労働同一賃金の理屈を利用しようとするのであるが、こうしたブルジョアの立場こそ同一労働同一賃金の理論の本質を端的に暴露しているといえるだろう。

 それは、この理論が労働者内の差別や階層化の一掃にとって有用であるというより、むしろ有害な契機を持っていることを暴露しており、労働者が無批判的に接近すべきでないことを示唆している。

 「公正なる1日の労働には、公正なる1日の賃金を」という、19世紀中頃のイギリスの組合主義者のスローガンは、労働者が“公正に”資本によって搾取されるということであって、マルクスによって批判されたのだが、同一労働同一賃金のスローガンもまた、こうしたブルジョア的発言によって、それが搾取労働を隠蔽し、労働強化さえも正当化するスローガンであるという、その本質を暴露している。まさに19世紀の組合主義者のそれと同様に反動的なものである。

 正規と非正規との、男性と女性との賃金差別等々に反対する闘いには、同一労働同一賃金のスローガンは無条件に掲げられるべきではない、というのは、それは結局、搾取労働のもとでの「公正」を、搾取される労働間の「公正」を擁護し、正当化することに帰着するからである。

 自覚した労働者は、同一労働同一賃金に代表される、ブルジョア的な、偽りの「公正」や「平等」に留まらず、資本のもとでの実際の差別を粉砕し、一掃するとともに、さらにその先にまで、つまり「賃金制度の廃止」というところにまで進んで行かなくてはならないし、進んでいくだろうからである。

 本当の意味での「公正」や「平等」の分配をいうなら、言葉の真の意味での「労働に基づく、その長さ=労働時間に基づく分配」についてのみ、つまり社会主義のもとでの分配についてのみ言えるのである。


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