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マルクス主義同志会機関紙
『海つばめ』

◆隔週日曜日発行/タブロイド版4ページ
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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
  または各支部・会員まで。
  メールでの申し込みも可能です。

まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1271号 2016年2月28日
【一面トップ】正気失う黒田金融緩和――労働者には何のメリットもなく――“マインド”にさえ訴えないマイナス金利
【主張】画餅に帰す志位の参院選戦略――「安保法」や「閣議決定」の破棄はどこへやら
【コラム】飛耳長目
【二〜三面】破綻する現行介護体制――苦悩する介護労働者たち――介護の真の“社会性”は共同体原理と共に
【四面】共産党と自衛隊と憲法と――一貫しているのは“小ブル民族主義”だけ
※『海つばめ』PDF版見本

正気失う黒田金融緩和
労働者には何のメリットもなく
“マインド”にさえ訴えないマイナス金利

 世界的に、株価の崩落や過剰生産が顕在化し――これはまた、信用の崩壊や“実体経済”に累積してきたブルジョア的矛盾やあらゆる不均衡の爆発でもある――、資本主義の危機の時代が、リーマンショック時にも匹敵する危機の時代が始まろうとしているかである。アベノミクスの破綻は、その一環であり、リーマンショック後の世界のブルジョアたちが、まさにリーマンショックという危機に対応するために競って採用してきた、財政金融膨張政策の、とりわけ「異次元の」金融緩和政策の失敗の鐘が、その弔鐘が鳴り響きつつあるということ以外ではない。

 今では安倍も黒田も、偽りのごまかしや言い訳や、卑しい弁解や遁辞や、あてのない「期待感」や空頼みに走る以外、アベノミクスや異次元の金融緩和について、何も語ることができなくなっている。

 いわく、「一定の効果」は上げた(「一定の効果」とはどんな効果か、そして彼らも「一定の効果」でいいと言って来たわけではないはずだ)、少なくとも「デフレではない」といえる状況にはなったとか(物価上昇が続くようにならない限り、デフレを脱却したことにならないと言い続けてきたのは、彼らなのだから、現在そうなっていないのに、どうして「すでにデフレではない」と言えるのか、それは彼らの概念規定によっても決して言えないことではないのか)、2%の目標達成には「時間がかかる」とか(しかし黒田ははっきり、2年で達成すると公約し、豪語したのではなかったのか)、あるいは「何の心配もない、これからはよくなる」と空頼みの言葉を並べ、「中国経済の悪化」や石油価格の暴落やなど世界の経済事情の急変など、思いもかけぬことが生じたから悪いと弁解や他人への責任転嫁に終始し、あまつさえアメリカがこんな時に量的緩和政策の廃止の方向に進んで、世界中の「デフレマインド」克服の努力に水を差すような迷惑なことをしたと、自分らの破綻はアメリカのせいであるかに(アメリカも反省している?)言いくるめようとするのである。

 かくして彼らに残されていること、なし得ることは、ただ虚勢とはったりと強がりによって、音を立てて崩れ始めた、自分たちの築いた虚構の世界を1日でも長く「持たせよう」と、あだな努力にふけることだけである。

 そもそも、国民の、ブルジョアや労働者、勤労者たちの「気持ち」(デフレマインド)を変えて、インフレ期待の「マインド」に転換できれば、日本の経済的困難――80年代のバブル破綻後の10年、20年と続いてきた、彼らの言うところの「デフレ経済」、つまりダラダラといつまでも続く不況や停滞や衰退さえ現れている日本経済の困難や矛盾――をたちまち克服し、一掃し、物価上昇が恒常的に継続していく景気回復と「経済成長」の世界が戻ってくるというトンチンカンな観念や、そんな幼稚な観念論から出発するアベノミクスや黒田の金融緩和路線が破綻するのは一つの必然であった。

 そして今や最後の手段であるかに、安倍と黒田は無理矢理マイナス金利を「導入」したが、しかしそれもまたデフレつまり経済停滞や困難に対する“特効薬”として現れることができず、また期待された“効果”をもたらすどころか、反対に株価の崩落や円高という、安倍政権にとって絶対に避けなくてはならない結果につながっている。彼らにとって最悪の事態である。

 問題は、マイナス金利はさしあたり信用と金融の世界と、せいぜい財政の世界の現実であるが、それはいかなる影響を、“実体経済”と産業資本の世界に、つまり信用の世界とは区別されている世界に及ぼすのかということであり、さらにまた、こうした政策は誰の、どんな階級や階級勢力のためのものであり、どんな勢力に直接の、間接の影響や利害関係を及ぼすのかということであり、最後に、こうした資本主義と市場経済にとって、その“原理”や“法則”を根底から否定し、止揚さえするような“政策”が、資本主義の運命にどんな影響と未来をもたらすのか、ということである。

 もちろんこうした問題に回答を与えることは容易ではないし、とりわけ最後の問いに答えることは決定的に重要であり、また一般的な答えを述べることは簡単だろうが――つまり、マイナス金利は資本主義の将来にとって、命取りの一つになりかねないということであろうが――、しかし明瞭にいまその論理を展開することは難しいし、その実際の歴史的、現実的な過程の見通しを語ることも簡単ではない。

 したがって、我々は当面は、次の問いに答えることに留め、それ以上の問題は今後の現実の進行と我々の理論的追求にゆだねるしかないのである。

 黒田は金融緩和政策は無限である、というのは、いくらでもマイナス金利を大きくして行くことに、理論上限界はないからというが、実際にはマイナス金利というのは“経済法則”違反であって、ゼロの金利が理論上の最低であり、マイナス金利は理論上、あり得ない金利、仮に存在するとしても、ただ一時的、偶然的なものとしてしか存在しえない金利だとするなら、マイナス金利に助けを求めた時点で黒田の「異次元の」金融緩和、こけ威しの金融緩和は破産したのである。彼がこれから、例えば何%にも達するようなマイナス金利政策をやれるはずもないことは余りにはっきりしている。

 マイナス金利で得をする勢力がもしあるとするなら――その実行者である日銀は別として――、まず安倍政権であろう。安倍は今後、財政膨張政策を強力に推し進めようとするなら、マイナス金利は大歓迎である、というのは、国債を発行するのに(借金するのに)、国債利子がただ同然になるからであり、下手をすれば、借金して利子を支払う代わりに利子を受け取り、儲けることができるといった、とんでもない、筋違いな幸運にありつけるからである。

 そして直接に被害をこうむるのは銀行を始めとする金融機関である。彼らはまず余ったカネを日銀に預けても、これまでのように利子を受け取ることができなくなるばかりか、いわば懲罰金を課せられるからであり、日銀に預ける代わりに、貸し出して利子所得を求めるか、それが不可能なら他の預ける場所を探すしかないからである(もちろん倉庫でも作って、大量の日銀券を保管するという手もあるし、もっとうまい保管方法もあるかもしれない)。

 そして銀行は近年、ますます大量の国債を買いあさり、預金で集めたカネを「国債で運用」してきたが――つまりそんな安易なやり方で、本業の貸出業以外で儲けてきたが――、今後は国債を保有しても何の益もないのである。もっとも手持ちの国債を売るなら、当面は利益を確保できるが――というのは、今は日銀などが国債をいくらでも(それももう限界かもしれないが)高値で買ってくれるから――、しかし国債保有から来る利得は、今後は保証されない――かえって損をしかねない――のである。

 このことは中小の、あるいは弱小の金融機関にはひどい打撃となりかねず、ゾンビのように生き延びてきた多くの金融機関の危機と一掃を意味するのである。

 労働者、勤労者にとっては、“悲喜こもごも”であり、場合によりけりといったところであろう。労働者、勤労者がカネの貸し方として現れる限り、利子率は高い方がいいに決まっている(預金等々)が、他方、借り方として現れるなら(住宅ローンを組む場合等々)、利子率が低い方が利益であるのは当り前のことである。

 しかしより長期的に見るなら、マイナス金利によって、そんなバクチのような金融政策によって、金融制度や金融“秩序”がメチャメチャになり、金融・信用関係が解体し、またそれと財政の破綻などが絡み合って、進行するインフレ経済が襲うような時がやってくるなら、確実に労働者、勤労者の生活は破壊されるのであって、その意味では、マイナス金利は安倍政権と黒田日銀の邪悪で、詐欺師的な政策でしかないのである。

 世界はリーマンショック後、その信用崩壊に驚き、恐怖して、財政膨張政策に、そして金融緩和政策に頼り、依存し、そんな経済へと傾斜していった。しかしリーマンショック自体が信用バブルの結果であり、その背後には“実体経済”のバブルが、つまり過剰生産があったとするなら――そしてもちろん信用バブルはそれを温存し、あるいはさらに推し進めたとするなら――、金融緩和政策はまるで火種のあるところに水をまく代わりに油をまくも等しい“効果”をもたらすこと――少なくとも火勢を弱め、まして消すものでないこと――を見抜くには、いかほどの努力も必要としないであろう。

 そして財政膨張政策の限界が明らかになるにつれて、リフレ派経済学がもてはやされ、金融緩和政策が万能視されるようになってきた、というのは、国家や中央銀行がカネをバラまくこと――「異次元の」量的緩和等々――には「限界がない」かに見えたからである。

 しかしいまでは、それすら限度があることが見えてきて、それを超える“最後の切り札?”として、まだマイナス金利政策が残っていた、それならいくらでも下げられるといった、新たな幻想まで振りまかれ始めたというわけである。黒田は金利引き下げなら、マイナス金利を考えれば、極端に言えばまだいくらでも引き下げ得るといった妄想を公然と口にするまでになっている。ブルジョア勢力の全体が完全に正気を失いつつあるようにしか、理性も常識さえも捨て去りつつあるようにしか、健全な労働者、勤労者には見えないのである。

 世界の資本主義社会が、それまでの経済成長と繁栄の時代を終え、過剰生産や過剰信用の時代、矛盾を深め、それを爆発させる時代を迎えた、その入り口の1970年代、貨幣と金(キン)との関係を断ち切った、ニクソンショックに見舞われたのは偶然ではない。

 それ以来、とりわけ20世紀の末以来、あれこれのバブルや、リーマンショックなどの、日本の経済が、世界の経済が健康なもの、「成長する」ものではなく、趨勢的にデフレと呼ばれる状況に停滞してきたのもまた一つの必然であった。

 そしてブルジョア世界は、そんな資本主義の困難に立ち向かうためには、金(キン)との「束縛」を離れたカネに頼り、カネを利用する以外、どんな好都合な方法も見出すことができなかったのである。かくして、過剰生産や過剰信用の矛盾に対して、それをさらに加速させ、促すような政策が、つまり信用バブル、資産バブル――“実体経済”のバブルもまた当然に多かれ、少なかれ――をはびこらせるような、転倒した政治、政策が、現代資本主義の「死に至る病」に誘導するような政治、政策が採用され、強行されるような時代になってきたのである。

 かくして今や慢性的な「デフレ」に悩まざるを得ないような世界が出現し、世界中の国家はあたかも金融緩和という麻薬依存症に冒され、それに苦しむ状況に追い込まれているのである、麻薬の弊害を一掃し、依存症を乗り越えて“健康な”体を取りもどさなくてはならないが、麻薬を止めれば極度の禁断症状が出て、ひょっとして命にさえ影響が出かねないのである。

 困惑したブルジョアたちは、麻薬を“急激に”減らしたり、断つことは命取りになりできない、「ソフトランディング」しかないというのだが、しかしそんな余裕さえないような、追い詰められた状況にきていないであろうか、ソフトランディングをしようとしても――つまり安倍がアベノミクスは失敗だ、転換するとほのめかし、黒田が金融緩和政策を止めるとつぶやいただけでも――、その気配だけでも「市場」が敏感に反応し、金融緩和で膨張しきった信用関係や高騰した株価に「ソフトに」ではなく、ラジカルに襲いかかり、そんな虚構を一掃しまいかねないのである、そんな恐怖に怯えなくてはならないのである。

 安倍や黒田が「期待」したのはカネを日銀を通してバラまくことによって、年々2%という物価上昇の時代をもたらすことで、それが実現するなら、デフレ脱却、つまり経済的な不況や停滞からの脱却もお茶の子さいさいになるということであった。

 しかし「こと志に反して」、バラまかれたカネは、経済と流通の中で、貨幣資本(貸付資本)として、また通貨として機能する代わりに、銀行や企業の中にため込まれるか、銀行の日銀への預金として累積するか、あるいは海外に貨幣資本として出て行くか、等々した結果、インフレにほとんど資するところがなかった。

 そしてインフレこそが、インフレ景気――通常、空景気の典型と見なされる――こそが経済を救い、日本を救い、そしてまた世界的に協力して実行されれば、世界をも救うと盲信する安倍や黒田らは、何をしても上向かない物価に直面し、いま顔面蒼白になり、立ちすくむしかないのだが、これは喜ぶべきことではあっても、労働者、勤労者には悩むべきことは何もない。

 インテリたちは当惑し、物価上昇をいかにして招き寄せられるべきかとか、あるいはそれは困難ではないかとか、知ったかぶりをしておしゃべりにふけったり、解説するのだが、もちろん物価上昇が、インフレが「困難」だとか、あり得ないとかいうことなどあり得るはずもないのである、むしろ今やマイナス金利という現実を迎えてインフレ社会の可能性が、否、その必然性と危険性が高まったというべきであろう。

 今重要であり、恐れなくてはならないことは、2%ほどの物価上昇は困難であるとか、進まないとかいうことではなくて、反対に、一旦物価上昇が始まるなら、それは決して2%といった温和なものに留まることはなく、丁度あふれようとする、溜まりに溜まった洪水が一旦堤防が破れれば怒濤のような奔流となって部落を襲うと同じように、たちまち数%、10%くらいのインフレとなって、それどころか下手をすれば2、30%とか数十%ほどもの物価上昇として労働者、勤労者に、貧しい人々に襲いかかり、彼らの生活を困窮させ、破壊しかねないということである。

 こうしたことは資本主義の現実の中で、また歴史的にも、また現在においても、多くの国で生じてきたことであり、今も生じていることである。

 とりわけ通貨が、流通するカネが実際の貨幣との結びつきを失っている現代では(「管理通貨制度」のもとでは)、こうした事態は必然でさえあり得るのである。

 1930年代初頭、世界恐慌とファシズムの台頭する時代にあって、現代は資本主義の危機の時代、資本主義が「死の苦悶」にあえぐ時代であり、そんな時代の始まりであると、当時の革命家たちによっていわれたが、それから80年余、今やそんな資本主義の歴史的な危機の時代、労働者、勤労者の闘いの組織的、実際的な準備を急がなくてはならない時代が再び、三度、やってきたのである。



画餅に帰す志位の参院選戦略
「安保法」や「閣議決定」の破棄はどこへやら

 志位の執着にもかかわらず、国民連合政府とそれによる「安保法」や「閣議決定」の廃棄のための闘いという路線は画餅に帰し、志位は仕方なく、一方的に、共産党は一人区で立候補をしないと言うしかない立場に追い詰められた。

 志位はいまや岡田の軍門に下り、岡田路線――半ブルジョア的な路線――に追随するしかなくなったのである。志位の路線の完璧な破綻であり、挫折である。

 野党の統一戦線は辛うじて残ったというのか、しかしそんなものは、事実上、民主党のためのものであって、共産党にとっては苦い屈辱的なもの――一方的に譲歩を迫られる――にしかならない、否、すでにそうなっている。

 志位は結局民主党に――松野維新にさえ――全面的に降参、屈従して、参院選を闘う道を余儀なくされたのである。共産党を毛嫌いする松野さえ、「共産党が腹をくくって一歩引くというのは千載一遇のチャンスだ」と大喜びである。

 死にそこないの民主党に手を貸し、美化するしか能のない党とは、情けない、卑小な党ではある。「自共対決」をわめき、共産党のみが闘う党で、民主党など信用できない日和見党だと叫んできたのは、共産党ではなかったのか。

 岡田や松野に譲ったのは、野党5党が安保法関連法を廃止する2法案を衆院に提出することで合意し、共通の政治的立場が確認できたからだ志位は言うのだろうが、見え透いた欺瞞であって、実際には、岡田らが志位の体面のために、単なる政治的儀式の茶番を演じ、それと引き替えに、志位の全面的な屈服と譲歩を取り付けたということにすぎない。

 志位は参院選を闘う大義名分を失ったのである。集団的自衛権容認の閣議決定や安保法を粉砕する国民連合政府も棚上げするということは、それらの課題がどうでもよく、「緊急の」課題でもないということで、昨年の9月以降言ってきたことはすべて、見通しも現実性も何もない妄想、妄言のたぐいだったということである。

 参院選では無理だとしても、衆院選では協力をし、295の選挙区で、共産党が民主党などに協力を求める選挙区も当然決める、そこでは対等の「ギブアンドテイク」でやるかに取り繕うが、それも、民主党などが応じなければ画餅に終わるだけだ。そして民主党が――民主と維新がくっついた新党が――志位の思惑通りに動くとは限らないのである。

 「単なる棲み分けではなく、本格的な選挙協力を目ざす」というが、その内容も展望も曖昧で、何の当て、見通しもないのだ。

 共産党がこれまで一人区や小選挙区のほとんどすべてに候補者を立てたのは、当選できないにしても、そこでの闘いによって、「比例区の票の上積み」を期待できたからだそうである。しかし今回は自党の利益だけを考えることはやめて、“野党”全体の利益を考えると殊勝にふるまうかであるが、しかしそれは、これまで共産党のやってきたことはとことん利己的であったことを自ら認めることにならないのか。

 いまや共産党は安倍政権と原則的に、徹底的に闘い、労働者、勤労者の熱い支持を得て議席を増やすのではなく、闘いを裏切りつつ――というのは、それなくしては安倍政権と闘うことのできない大切な“統一戦線”なるもののために、そして半ブルジョア政党の、とことん日和見主義で、すでに破産しているような民主党に媚びるために、日米安保条約や自衛隊や天皇制を否定するという党の原則を棚上げするというのだから――、民主党や市民派といちゃついて議席をいくらか増やそうと策動するだけである。「野党共闘を強く求めてきた市民団体の意向に沿うことで、……『比例票と複数区での票の底上げが期待できる』と計算している」(朝日23日)のだそうな。

 民主党や「市民団体」に迎合するそんな政治で「支持拡大」に励むが、そうすることで、彼らは得る物よりも失う物の方がどんなに大きいか、そしてそれが共産党の未来を全く奪い、解党への道につながるかを知らないだけである。



破綻する現行介護体制略
苦悩する介護労働者たち
介護の真の“社会性”は共同体原理と共に

 川崎市の有料ホームで、「介護」を必要としていた3人の老人が23歳の職員によって殺害された。一昨年11月から12月にかけてのことである。ブルジョア福祉の欺瞞性がさらけ出され、その矛盾が引き起こした不幸な事件である。虐待の報告も数百という規模で増えているが、それは「氷山の一角」といわれている。いわゆる「介護」の問題を、この事件をきっかけとして論じることにしよう。

◆「介護」問題の本質を語る事件とその背景

 事件のもととなった会社については、以下のような記事がある。

「親会社も合わせた全国の約280の系列施設の中でも、約80人の入所者を抱える『Sアミーユ川崎幸町』は規模が大きい。元職員は、『床数が多いとそれだけ、個別の対応も多くなる。とにかくスケジュールが過密すぎる』と現場で抱えるストレスを語る。

 深夜から早朝の時間帯は3人体勢で、『ライン』と呼ばれる分刻みのスケジュールで動きが管理されている。1人が仮眠を取る時間帯は80の居室を2人で分担し、各部屋を巡回。必要に応じておむつを替え、床ずれしないようにひんぱんに体位を変える。『トイレに行きたい』『具合がわるい』とコールが鳴れば、すぐ対応しなければならない。『ひどいときにはコールが鳴りっぱなし。とてもラインはこなせない』という。

 こうした介護現場のストレスを、どう緩和したらよいのか」(朝日新聞2月22日)

「『仕事が多すぎる』。この施設で働いた経験者は話す。定員80人の施設で、当直は原則として3人。巡回し、寝ている入所者の体位を変え、おむつを替える。『分刻みでやることが詰まっている。介護を受ける人を足手まといと感じてしまい、つい《死ね》とか言いたくなる』と明かした。

 運営する『積和サポートシステム』(東京都中央区)は、介護業者と住宅メーカーが出資して、2005年に設立。高齢化を背景に、東京都と神奈川県を中心に現在は25施設を展開している。入社時の今井容疑者のように、介護の資格を持たずに働く職員も少なくなかったと施設関係者は言う。今井容疑者は入社後に、介護職員初任者研修終了の資格を取得していた。同社の岩本隆博社長は16日、『誠に申し訳ございません』と謝罪。『性善説に立って物事を判断したことが反省点だ』と話した。

 親会社の『メッセージ』(岡山市)も合わせた全国の約280施設で、虐待や介護中の事故など行政に報告する義務のある事故は、2010年4月からの5年間で約4400件。このうち、約45%にあたる約1950件が未報告だった」(朝日新聞2月17日)。また岩本社長は、「運営は施設任せであった」とも語っている(日経新聞同日)。

 すさまじい介護現場の状況や、「虐待」や「事故」の多さである。しかもその半分ほどが「未報告」であったというが、こうした未報告はいかにして明らかになったのだろうか。1年ほど前には、“制度外ホーム”の高層マンションで、「拘束介護」が明らかになり、大きな問題になったこともある。

 経営者は自分が「性善説に立って」いたことが「反省点だ」などといっているが、まさに厚顔無恥の責任逃れでしかない。このブルジョア氏は、「施設任せ」であって、事件は自分には直接に関係ないと言いたいのだが、それは下の方の「施設」の担当者が「性が善である」――だから、施設側がちゃんと管理してくれる――と考えたと言いたいのか、施設の職員の「性が善であって」、低賃金で、ひどい労働条件を押しつけても、あるいは強要しても、不満も持たず、怒りも感じず、黙々と働くだろうと思っていたと言いたいのか知らないが、そんな屁理屈で、事件に自分こそがまず決定的な責任を持っていることを否定することはできないのである。こんな屁理屈で、自分の思い違いで(“性善説”で)注意を怠ったのが悪かったわけではないなどと弁解するのであり、そんな言い訳によって自分の貪婪で、無慈悲で、いい加減な経営が正当化され得ると思い込むのである。

 現場のこうした現実が明らかにしていることは、「介護」制度の矛盾と、それが解体しつつある現実である。2000年に新しい、介護保険制度が始まったが、それは、「介護」を個々の家族や個人が負担するのは不可能であって、社会的に、社会全体で支えなくてはならないという理由からであった。この制度は基本的に、結局は一方ではカネ――介護保険と税金――とによって、他方では賃労働によって支えられている、その意味では極めてブルジョア的な制度であって、誰のためにも本当の幸せをもたらさないばかりか、その内在する矛盾によって今や解体寸前にあるといって決して言いすぎではない。

◆破綻するブルジョア介護制度と安倍

 安倍は、「一億総活躍社会」への“緊急対策”を謳い、その一つとして、年々10万にも達する介護離職を20年代初頭までに無くす、そのために要介護者50万人分の介護サービスの充実を、施設増設や25万の新職員等々で実現すると、高らかにラッパを吹き鳴らしている。保育でも50万人分の受け入れ体勢を整えるとも言う。いずれも40万くらいといわれたものを、安倍が一存で上積みした数字で、財政的、実際的な確かな計画や見通しがあってのことではない。「政府高官」なる政治家の、「いずれも切りのいい50万とした」いう言葉が教えるように、選挙目あての単なる数字である。

 言うだけなら、そしてそれが確実にできようができまいが一切責任を負わないでいいというなら、誰にでもできることである。予算の裏付けからしてほとんどなく、介護職員の確保も四苦八苦であり、深刻な「人材不足」の状況が続いているのを見れば、安倍の言っていることが口から出任せの大ボラの類でしかないことは簡単に確認できるのである。実際、今の「介護」の現状はカネもなく、施設もたりず、職員の給料も最低に押しさげられており、介護労働のきつさや難しさもあいまって労働者、勤労者から敬遠されており、まさに「八方ふさがり」といった状況である。

 この制度を支えるカネは、半分はなぜか40歳以上の人に限って、すべての人々、どんな高齢者にも、また低年金や無年金の者にさえ一様に課される保険料だが、2000年の最初のときは2千数百円から3千円ほどであったものが、14年度(一昨年4月から)には平均5514円と2倍以上になり、低所得・無所得の老人たちの大きな負担になってきている。10年後、75歳以上が人口の5分の1、65歳以上が3分の1ほどになるときには8千円に達すると見られている。

 40歳以上の労働者、勤労者から、そして年金所得者や無職者からさえ、ますます高額となる保険金を取るといったちぐはぐで、矛盾そのものの制度であるばかりではない、今では安倍の大言壮語の空文句にもかからず、現実には財政的にも破綻に瀕している。

 そして介護保険制度が始まった2000年度には3・6兆円だった費用は、14年度には約10兆円とうなぎ登りに増えてきたが、今後、「団塊の世代」――戦後3年間で800万人という、飛び抜けて多い出生数を誇った世代――がこの制度の対象になっていくにつれて、必要なカネは急速にふえこそすれ縮小する見通しは全くない。10年後には、この金額は倍増して20兆円と言われる。

 ブルジョアや政府も、膨れあがる「介護」費用に危機意識を募らせ、昨年度からの介護報酬改定を打ち出し、介護報酬の2・27%の引き下げ、在宅「介護」重視への転換――介護は社会で担うという原則からの後退?――を打ち出してきた。

 後者は特養の入所基準を「要介護3以上」にするとともに、「24時間地域巡回型サービス」の体勢を強化する、通所介護の認知症高齢者や中重度者の積極的受け入れ、終末期の「看取り」の充実などを謳っているが、これらは結局、在宅介護を奨励して介護費用減につなげようということに帰着する。

 さらに、介護保険適用者のうち、年金収入280万以上の単身者には自己負担を1割から2割にする(これにも複雑な内容があるが省略。約60万人に適用)、高額介護サービスの基準引き上げ、資産の多い対象者には特養などの補助対象外に置く、特養相部屋の負担なしを有料にするなど、収入増のための「改革」も謳われた。

 もちろんこうした「改革」は「改革」に値するかどうかも分からないものであり、またそれが困難な介護問題の根本的な解決とは全く無関係なのは明らかである。むしろこの問題の本質を隠蔽しつつ、困難を温存し、その最終的な破綻を準備する類のものであろう。

 昨年の介護報酬の引き下げは、財務省が音頭を取り、特養の利益率は9%に近い、全体で2、3兆円の「内部保留」がある、つまり儲けすぎていると主張、3%の引き下げを持ちだしたが、それでは「過去最大の引き下げ」になってまずいと安倍政権が介入、2・27%になった経過がある。介護報酬は、これまで03年の2・3%、05年の1・9%、06年の0・5%と3回引き下げが続いたあと、09年には3%、12年にも1・2%の引き上げになっていた。

 介護報酬の引き下げは――人件費の高騰や建設費の高騰とあいまって――、介護産業のブルジョアたちにとって打撃であり、業者の――とりわけ中小の――破綻が増大し、大手への資本集中に拍車を掛けている。それにつれて“職員”つまり賃金労働者への矛盾のしわ寄せはさらに過酷なものとなっている。大手企業のなかで頻発する“虐待”は決して単に、個々の職員の「資質」といった問題で語られるべきでないゆえんである。

 生産的労働者ならぬ“サービス”労働者、つまり我々が問題にしている介護労働者の賃金は、“平均の”労働者の賃金の3分の2ほどである(労働者の平均が33万なのに介護労働者は22万と言われる)。

 サービス労働者の賃金は、自ら生産した生活と消費のための生産物の一部ではなく、生産的労働者の生産したものから派生するのであり、したがってブルジョアはそれを最低限の水準にまで、いくらでも切り下げることに利益を見出すのであり、また事実切り下げるのである。生産的労働の搾取は、つまり産業資本の利益は、少なくとも生産された富を前提とする、しかしそうした契機を欠く、サービス産業のブルジョアの利益の源泉は、こうした無慈悲な搾取行為にこそもっぱら存するのであって、だから労働者の“使い捨て”と零落は、ここでは不可避である。

 深刻な「人材不足」の解決策の一つとして、外国人の「導入」も語られているが、現在わずかにフィリピン、インドネシアを中心にわずか300人に、「研修」の外国人もいれて千人であり、25年にはさらに100万人も多い職員が必要と言われているときに雀の涙程度の数である。

 そもそも我々の家族肉親の「介護」をもっぱら外国人に頼るという発想自体、どこかおぞましいものがあり、金持ち国(ブルジョア大国、帝国主義的国家)の傲慢や思い上がりが透けて見える(他方では、外国人の自由な往来や就労などの規制、制限もまた見苦しいのだが)。

 そして参院選を前にして、安倍は安易に、昨年の費用節約、負担増大という方向を再び逆転させてか、50万人もの要介護者を社会的に受け入れることを公約し、「介護離職」はゼロにすると公約するのだが、こうしたことが「言うに易く、行うに難い」ことは、昨年の「改革」が、介護のブルジョア的“社会化”の費用が増大するだけであって、放置するならこの制度自体が持たないと判断され、「在宅」重視の方針に「転換」?せざるを得なかったことからも明らかである。

 安倍はこうした前後撞着や混乱をいかに説明してくれるのか、一貫した方向性はどこにあるのか。

 安倍は50万人もの要介護者のさらなる受け入れを保障すると言うが、しかし例えば、都内の特養の半数が職員定数割れで、そのために利用者がいても入れない空き部屋が増えたり、サービスもろくにできない施設もあるという現実を知っているのだろうか、現在の“ブルジョア的な”、つまりカネずくの、賃労働依存の、偽りの介護保険制度が、“福祉”が軋み、音を立てて解体しつつあることを自覚しているのだろうか。

 12年度の統計では、働きながら家族を介護している人は240万にもいたという。介護離職は約10万であった。仮に10万の介護離職者をゼロにできたとしても――それすら怪しいのだが――、240万の困難な状況は残るのであり、何の解決もないことは明らかである。安倍にとっては、本当の解決などどうでもいいのであり、ただ「一億総活躍社会」といった空虚なスローガンが派手に宣伝され、何か意味があるかに見えればいいのである、それによって安倍政権が安泰ならすべてOKなのである。ただそれだけのことである。

 共産党はただ介護の費用が削られることを目の敵にして非難し、国家がカネを必要なだけ出せばすべてがうまく行くと騒ぐだけであるが、彼らは国家もまた歴史的なものであって、万能の権力ではないということ、国家の出すカネも無規定でなく、労働者、勤労者の生み出した剰余価値の一部であることを知らないだけ、知らない振りをしているだけである。

 そして自由主義的主張のナンセンスさは、朝日が証明してくれている。

「虐待を起こす職員の中には、日頃から利用者や家族の声をちゃんと聞かない、話しかけても返事をしないなど問題があることもある。そうした小さな『兆候』にも注意が必要だ。事故やトラブルが起きた時に、きちんと情報を集め、検証する仕組みがほしい。入所者の安全が脅かされることのないよう、施設側には万全を期してほしい。

 外部の『目』、施設の質を高めるには有効だ。中立の第三者機関による『福祉サービス第三者評価』などとの仕組みの活用を考えたい。評価結果は公表され、利用者が施設を選ぶ際にも役立つはずだ」(朝日2月17日)

 朝日はまた何という、つまらないことばかり考えるのであろうか、何という矮小さと俗物性をさらけ出していることだろうか。

 ブルジョア世論、愚昧な自由主義的世論はまた、職員の経験が浅く、少ないのが原因だとか、だから職員の教育や育成が大事で、彼等の「知識や技術の不足」をなくすべきだとか、もっと職員を増やして余裕を持たせるべきだとか、給料を上げて待遇を改善すべきだとか、やかましく論じている。しかし23歳の若者は、身内の介護という現実もあって、それを動機に救急救命士の資格を得て、ホームに就職している。問題が単に「教育」や「知識や技術」の不足ではないことを示唆している。

◆介護はその本性からして賃労働として担われるべきではない

 この社会の「介護」を必要とする老人への対応は、家族・肉親に依存するか、施設(ホーム等々)に依存している。近年では、後者の比重が飛躍的に高まったが、それは「介護」もまた、個人的な形ではなく、社会的な形を取るべきであるという自覚と認識が高まったからでもあった。そしてその方向に沿って“改革”が実行されたはずだが、しかし今や、資本の支配する社会では、そんな善き意図は無為になり、実行され得ないことが明らかになって来たのである。今や「介護」の世界は闇の世界、困難と絶望と不安と不満といらだちの世界そのものといって決して言い過ぎではない。

 一言でいって、ブルジョア社会では、彼等のやり方では、「福祉」や、その一部である「介護」の問題を解決することは決してできないのである。というのは、彼らは「介護」の社会化についておしゃべりをするが、その本当の意味を理解していないし、また従って「介護」の社会化を実現することができないで、結局は「私」の限界の中に留まるし、留まるしかないからである。

 ブルジョア的“改革”は個別的な解決――家庭や親族等々に依存した解決―を脱却しようとし、また部分的に脱却したが、それはブルジョア的な解決、資本関係や「経済関係」の働きに――したがって賃労働に――依存した解決であって、それはたちまち破綻を暴露して来たし、今も暴露しつつある。

 すでに全国に1万近くも族生した有料老人ホームは、まさに資本家的に経営されている、つまり利益を上げる組織、上げなくてはならない組織である。ここでは「介護」もまた、金もうけの手段であるが、すでにこの様に書いただけで、こうした「介護」のあり方の筋違いというか、矛盾は明らかである。

 介護を必要とする高齢の老人を介護の職場で死に追いやった青年は、動機として、強いストレスを語っている。低賃金など、他の要因もあったかもしれないが、それよりも彼は「手がかかる」、厄介で、たいへんな、日夜を問わない老人の世話に疲れはて、生き甲斐も喜びも感じられない、「仮眠」さえも保障されない――され得ない――、日々の過酷な仕事のことを、そんな永遠に続く苦役を訴えているかである。

 果たして、「介護」が賃労働によって、つまり一部の貧しい青年や労働者らによって担われていることは正しいことなのか、社会的に正義なのか。彼らに果たしてやかましく言われる「人権」が保障されているといえるのか。それが問題である。

 実に、現今の社会の「福祉」、あるいはとりわけ「介護」の問題は、このブルジョア社会の、資本の支配する社会の虚偽そのもの、偽善そのものであり、それを象徴しさえしている。

 人々は、とりわけホームに介護を要する人々を預ける人々は、要介護者の、あるいは預ける人々さえもの「権利」や「人権」について論じている、そしてそれはいいとしても、ブルジョア福祉の体制が、介護に従事する貧しい労働者たちの「人権」を完全に無視している事実については、「介護」の課題を、賃労働制度を悪用して一部の貧しい労働者たちに「職業」として転嫁している「人権」の無視や否定について、口を閉ざして語ることはほとんどないのである。

 たった1日でも、賃労働として行われる限り、「介護労働」は労働者の「人格」の否定である、というのは、それは賃金奴隷としての、資本によって強制された労働、資本に従属する、自由意思によらない「労働」であって、要介護者への愛情や尊敬や同情からする活動――介護のための賃労働も、表面は、そうした労働である、あるいはそう信じるべきであると、きれいごとが言いはやされるのだが――にまで高められている“活動”、本当の意味での、“文明化された”、自発的な行為、常識的には“ボランティア”と称されている種類の人間的“活動”ではないからである。

 彼等の「労働」の社会的な意義は消極的なものであって積極的な内容や契機は少ない、つまりすでに社会的な存在を失いつつある人を世話をし、見取り、見送ることだからである。人間以外の生物の世界では原則として存在しない活動であり、種(人類)の存在と存続に取って不要な「労働」、活動である。動物の世界では、種の存続に必要なくなった「個」は原則として、自分で生きて行く力を失うなら「類」のために死ぬしかないのである、死ななくてはならないのである、というのは、そうした「個」を生かすために何ごとかをなすことはむだごとであって、種の存続にとってプラスの意味を持つことはないからである。

 人間だけが(人類だけが、「マン=man」や「オム=homme」や「メンシュ=Mensch」だけが)、曲がりなりにも種の存続のために無意味となった「個」、動物の世界では「余計者」となった「個」をも、共同体の内部に、社会の内部に抱え込み、包み込んで来るという「文化」や「文明」――そうした名で、仮に呼んでおく――を生みだし、はぐくみ、発展させて来たのである。

 例えば認知症の人々を全面的に「介護」することを、賃労働として、つまり特定の労働者の固定した、あるいは一生の「仕事」として強要することは――あるいは家庭・親族関係を通して強要することも同様かもしれないが――、彼等に対する「人格」の否定である――つまりそれらの人々の、人間として生きる為の生活や労働の否定であり、否定の契機を含んでいる――という事実と真実を、我々は確認せざるをえない。

◆介護活動と人間と賃労働

 生物あるいは動物には「介護」という行為は基本的に存在しない。生物は自分で生きられないときが来れば、ただ「死ぬ」だけであるが、人間だけは、自力で生きられなくなった人々、生きられない人々も可能な限り、社会の一員として包み込んで行く、「介護」して行くという「文化・文明」を発達させてきた。それは「介護」を必要とする人々への愛情や同情、連帯や共感、尊敬や感謝の気持ちといった、他の生物ではまだ発展させていない、人類特有の特性や感情からだったかもしれない。

 有史以前の人類の歴史においては、それは共同体の一員への、自然発生的な同胞意識や慣習や当然の行為として生まれ、発達させられて来たのであろう。

 介護の仕事を賃労働で担うということは、生産的労働を賃金労働が担うということ以上の矛盾と困難が、違った契機と内容が、そこには存在している。

 まず第一に言えることは、介護の仕事、とりわけ重い病気にとりつかれ、死んでいく以外の未来しか持たないような人々の「介護」といった仕事には、それを賃労働という形式で行うことには、生産的労働におけるよりはるかに非人間的な契機があるという真実を、我々はきれい事でごまかさないで承認すべきである。

 そのことは、我々が引用している、今回の施設における、介護職員の非人間的な現実が明瞭に語っていないのか。こうした活動は、動物と違って、人類が担っていくべきだというなら、それは人間が“文明的な”生物であるということから来るのであって、賃労働の問題、労働者、勤労者が生きていくために働かなくてはならない――しかも資本による搾取制度のもとで――ということとは、本来的に別の内容がある、あるいは別の契機がある。労働者、勤労者が賃労働に従事するのは、それが被搾取労働であっても、自分と社会の存立と存続のための労働でもあるからだが、つまり生産的労働だが、介護活動は生産的労働に存在する、そうした労働の基本的な契機を欠いているのである。

 だからそうした労働は賃労働としては単なる苦痛としてのみ現れ得るのであって、介護職員にはどんな積極的な意味も希望も未来も見出せない苦役として、自己の労働――というより、単なる仕事――を自覚せざるを得ないのである。それは単純に、自己の生活と人生の単なる否定としてのみ現れ得るのである。

 こうした仕事が賃労働として行われることは、つまり貧しい労働者、勤労者や青年の、生活のための手段としてのみ現れるのは根底的な矛盾であり、非人間性である。そこには生産的労働が賃労働として現れることとは全く違った契機があるのであって、それは実際に、ブルジョア的生産様式と賃労働の矛盾と非人間性の、決定的で、特徴的な一つの現れであり、その究極の行き着くところなのである。

 乳児、幼児の「介護」や養育にも同様な契機はあるが、しかし若い命は成長するのであり、苦役が仮に存在し、感じられるとしても一時的であり、彼らはやがて独り立ちしていくのであり、養育者たちは自分たちの困難やつらささえも喜びとして感じられ、それらが若い命の成長と共にやがて終わるという希望をいくらでも抱くことができるのだが、死に行く人々の永続的な、職業としての「介護」は、終わることのない苦役として現れるのである。

◆共同体社会と「介護」

 将来の共同体社会においては、「介護」の問題は本当の意味での社会的な行為となるであろう、つまり社会の成員のすべてが、その仕事を担うのである。例えば人々は自分と社会の存立と存続のために1日に4時間、生産的な労働に従事するというなら、さらに余分に「介護」――もちろんこれは広く「福祉」のことであってもいいのだが、簡単化のために、また明確化のために、この言葉を使うにすぎない――のためにさらに1時間の「仕事」をするということである。

 もちろん、ここで「権利・義務」という言葉を使いたければ使ってもいいが、そんな“ブルジョア的な”観念がもはや必要ないことは簡単に確認できるであろう。

 具体的に言うなら、1週間のうち、4日を生産的な労働のために、1日を自発的な活動のために、というやり方や、月単位で、20日は生産的労働に従事し、5日は「介護」のために仕事をするという形も、いくらでもありえるだろう。

 そしてこうしたやり方こそが、「介護」の真実の「社会化」の実現であり、その概念にふさわしい関係であることは容易に承認され得るであろう。

 またこうした「福祉」なり、「介護」なりの真実の社会化は、労働一般の、現在の私的労働としての支出される労働の(生産的な労働の)、社会的な労働への転化を前提とし、必然的な契機としてのみ可能であることもまた容易に確認されるのである。

 とするなら、もし人類が(まず日本人が)“文明化された”生物として生きることを真剣に、心から望むなら、「介護」問題一つとっても、ブルジョア支配が一掃され、廃絶されなくてはならないことは余りに明白ではないだろうか。

 我々はかつて、「悪党の」石原慎太郎を批判して、次のように書いた。

「石原慎太郎という悪党は、経済危機の中で失業した非正規労働者に向かって、仕事のえり好みをしている、介護の仕事でも何でもやるべきだ、甘いのではないかとわめいていたが、しかし労働不能の老人、自分で生きていくことができなくなった人々の生活が、職業としての『介護』の対象となり、世話する方も、される方も、カネの問題に還元されている、この資本主義社会の根本問題を少しも反省していない。もし石原が偉そうなことを言うなら、たった一カ月でもいいから、自ら、わずかの給料で、“介護労働”に従事してからにすべきであろう。

 かつては、老人もまた共同体社会の中で最後まで生き、共同体の一員として共同体の中で、その生を全うすることができた。しかしこのブルジョア社会では、一切の共同体が、社会でも地域でもますます解体し、そしてあんなにもブルジョアたちが持ち上げてきた“家族共同体”もまた解体してしまい、かくして『介護』もまたカネの問題に帰着したのであり、その矛盾によって社会全体の、国民全体の苦悩の一つともなっている」(『まさに「民主党らしさ」そのものだった――鳩山政権の9カ月』334〜5頁)

《注》以下の出版物にも、「介護」についての記事があります。参照して下さい。

・前掲『まさに「民主党らしさ」……』290頁

・『プロメテウス』第57号2013年8月(特集・資本のもとでの社会保障の限界と欺瞞)第三編「医療・介護問題を考える」特に「介護」については105〜111頁参照

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