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マルクス主義同志会機関紙
『海つばめ』

◆隔週日曜日発行/タブロイド版4ページ
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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
  または各支部・会員まで。
  メールでの申し込みも可能です。

まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1270号 2016年2月14日
【一面トップ】安倍 9条改憲まで口端に――敗北主義ムードの無力な民主――共産や市民派はピント外へのセクト政治
【主張】改めて原発事故の総括を――「事故防止検討会」で語られたこと
【コラム】飛耳長目
【二〜四面】焼糞のマイナス金利――アベノミクスの終着駅――はったりの黒田金融緩和は破綻へ
※『海つばめ』PDF版見本

安倍 9条改憲まで口端に
敗北主義ムードの無力な民主
共産や市民派はピント外れのセクト政治

 安倍は年頭から、憲法改悪の策動を再開し、強めている。闘う内容も、闘い方も知らない民主党や共産党を意識し、「憲法に指一本触れてはならないと考えることで思考停止になる」、「自民党はそうではなく、改正草案を示している」と批判し、民主党にも自ら改正草案を「出してみてくださいよ」と挑発すらしている。安倍はすでに、まずとっつきやすく、可能性の高い憲法改正として、正面衝突をいわば避けたような、「改正手続き」を規定した96条改正を持ち出してみたが、さすがにそれは自民党の内部からさえ「邪道」という批判が出され、お蔵にしまい込んでしまった。しかし安倍は昨年、今度は自民党の改正案に謳われていた、「緊急事態条項」を憲法に盛り込むという案を引きだし、今年に入って強調していたが、最近では、公然と、本来の目的である、9条の改定について語り始めている。あわよくば憲法の9条改悪を“大義”に、夏には両院同時選挙すら強行し、一大決戦に出ようと野心をふくらませているかにさえ見える。

 安倍がこれまで憲法改悪には“迂回作戦”が必要だと自覚してか、96条から始めるとか、「緊急事態条項」だとか言ってきたのを改めて、ここへ来て急に9条について語り始めたのは、96条にしろ、「緊急事態条項」にしろ、困難であり、大変であるのは、9条とそれほど違いがあるわけではない、条件が揃うなら、一気にやる方がかえって成功すると思いを定めつつあるからであるように思われる。

 96条から始めようと考えたのは、とにかく日本では改憲自体にアレルギーが強い、そんな日本の政治的環境やムードを変えるのが先決であり、まず外堀を埋めようということだったが、しかし共産党や市民派や自由主義派のような口舌の徒の実際の力や影響力は皮相であって、大したものではないと今や見くびり――その認識はもちろん正しいのだが――、また大阪維新の会や民主党の一部やその他の“応援団”も十分に当てにできると読んで――そして自分の一時の支持率を過信し、驕り高ぶって――、強行突破を密かに狙い始めた可能性はあり得ることであろう。

 また安倍一派は最近、「緊急事態条項もない今の憲法は、根本的な問題を抱えている。これを変えないと『戦後』が終わらない」と叫ぶが、もちろん「緊急事態条項」はダミーであって、彼らにあって“本命”が9条であるのは自明であった。

 安倍とその一派は、今は様々なアドバルーンを上げつつ、冷静に情勢を探っている段階で、参院選もしくは同時選挙で強行突破を決意しているわけではないだろうが、しかし状況次第では、いつでも強引な策に出る決意を固め、準備を開始しつつあることを、我々は確認すべきであろう。

 安倍一派は、志位らプチブル党や、“護憲主義”や“立憲主義”の個人主義派、自由主義派の連中が、現憲法を観念的に絶対化し、非実践的で、無力な立場――ブルジョア憲法擁護という、後ろ向きで、“防衛的な”立場――に後退し、沈滞している限り、闘いは決して不利ばかりではないと結論するのである。

 というのは、現憲法もまた――というより、“法の支配”を根底とする現在の民主主義体制もまた――、歴史的なものであって、決して絶対的で“不変の”真理といったものでないことは、共産党や“護憲派”の観念的プチブル以外の国民の大多数は――労働者、勤労者もまた、そうした認識の先頭に立つのだが――、容易に認識し、また直感的にも分かっているだろうからである。

 大体、共産党や立憲主義派が現憲法をそのまま支持したり、またそれらを“改正”することに反対するのは、彼ら自身にとって大矛盾である。

 例えば、天皇制一つとっても、天皇制をそのままに残して、「国民主権」とか「個人の自由」とか、国民の平等や差別の一掃とか、解放された「人格」等々について語ることは全くナンセンスであるのは一目瞭然である。共産党は自分たちの陥った矛盾から逃れようとしてか、それとも本心からかは知らないが、今では天皇制の容認にまで堕落している。憲法擁護の立場を一貫させるために、天皇制容認に走るというなら、本末転倒の愚劣さであり、労働者、勤労者への裏切りでしかない。

 徹底した民主主義について語るなら、天皇制は一掃されなくてはならないのである、まして、天皇の名によって、天皇と、天皇制ファシズムのために、何百万の日本の青年や労働者、勤労者が死ななければならなかった、15年の軍国主義と帝国主義の戦争の後においてをや、である。

 労働者、勤労者は、安倍の憲法改悪の策動に対して、憲法を前方に推し進める憲法改正を押し出し、提起するのである、例えば、天皇制の撤廃を求めて、安倍等の憲法改悪策動に対抗するのである。労働者、勤労者にとって、現憲法を擁護したり、美化したりすることは問題外である、というのは、それは根底的には、そして歴史的にはブルジョア的なものであるのは、最初から明らかだからである。

 共産党や立憲主義派は、憲法を歴史的に評価することができず、それを破棄するのはもちろん、いささかも変えてはならないものと、観念的に、非実践的に理解するのであり、憲法を守ることで、平和や自由やまともな生活や幸福を確保できると逆立ちして考えるのだが、しかし憲法にはそんな力はないのである、もしブルジョアや安倍や反動やファシスト等から、そうした「善きもの」を守ろうとするなら、労働者、勤労者は彼らに対して闘わなくてはならないのである。

 むしろヒトラーは、当時、「世界で一番民主的」といわれたワイマール憲法を遵守すると、権力奪取の後でさえ誓いながら、ナチス独裁国家を作り上げることができたのである。

 安倍はいまや嵩(かさ)にかかって、「憲法学者の7割もが、自衛隊は『憲法違反の疑いがある』と疑っている状態を無くすためにも」、憲法改悪が必要であるといった、厚かましい理屈を持ちだしている。

 国家の施政者は、執行機関は、憲法を遵守する義務があると、憲法自体が謳っている、それなのに安倍の発言は憲法軽視の許されざる、転倒した観念であると憤慨しても無力である、というのは、すでに半世紀も前から、自衛隊は仮に名前が軍隊でないとしても――軍隊と呼ばれたら、それは確かに憲法違反だが――、国家防衛のために必要不可欠のものであり、その意味では憲法違反ではないと“確認され”、容認されてきたからである。

 もし安倍の転倒した屁理屈を否定しようとするなら、それは50年前になされるべきであり、その頃に、もし日本が国家として軍隊を持つべきだとするなら、堂々と憲法改正をしてから、つまり憲法違反ではない法的確かさを確保した後に、自衛隊でも軍隊でも“再軍備”でも何でもすべきであって、そのことを抜きにして憲法違反の軍隊を持つべきではないという、“法治国家”の原則を貫徹しておくべきであった、ということになるだけである。

 その原則を放棄して、与野党のなれ合いといい加減な虚偽の中に「ぬくぬくと」まどろんできた半世紀の歴史こそ、共産党は反省すべきなのである。

 もちろん7割の自衛隊違憲論の憲法学者の中には、安倍と同じ立場から、違憲だからこそ改憲せよという“安倍派”の連中もいくらでもいるのであって、共産党や立憲派がこんな数字に、鬼の首でも取ったようにはしゃいでいるのは、ただ彼らのおめでたい、甘っちょろい本性を教えるだけである。そんな安倍派のインテリたちは、ただ憲法を変えて、憲法を実際の現実に一致させよ、と安倍をむしろ励ましているのであって、憲法を文字通りに遵守し、憲法違反の自衛隊(憲法の言葉でいうなら「戦力」)を廃絶して、1940年代後半の“非武装”であった、敗戦直後の牧歌的だった頃の日本に引き戻せ、等と要求しているのでは少しもない。

 稲田に言わせると、憲法をめぐる現状は、「現実に全く合わなくなっている憲法9条2項をこのままにしていくことこそが、立憲主義を空洞化するものである」という理屈になるのだが、さて、樋口陽一等の立憲主義の歴戦の勇士たちは、稲田にいかに反撃するのであろうか、それとも稲田のいうこともごもっともだと反省して、立憲主義の復活のため、稲田に賛成するのであろうか。

 立憲主義について一言いうなら、法治主義と立憲主義は必ずしも同じではなく、法治主義を立憲主義に言い換えることは、すでにそれだけでブルジョア民主主義の本質を歪め、一面化して理解することであり、実践的に間違った迷路に迷い込むことである。

 立憲主義とは、憲法は「国家や支配者を縛るためのものである」という概念だと主張するが、しかし憲法体制とは、つまり法治主義とは、国家や政府を縛るためだけのものではなく、労働者、勤労者をも縛るのである(労働者にとっては、この契機こそ問題である)、そしてこの契機を脱落させて憲法についておしゃべりするなら、現憲法を美化する立場に行き着くのだが、それは憲法のブルジョア的本質や反動性(天皇制や私有財産の正当化や、労働者、勤労者への納税の強制等々を見よ)の弁護や正当化という立場にまで、すなわち労働者、勤労者を裏切る立場にまでたちまち転落するのは必然である(共産党を見よ)。

 民主党の岡田は、「安倍政権の下では、内容にかかわらず、改憲には反対」という立場を表明したが、意味不明であり、野党第一党の代表として余りに浅薄で、軽率な発言というしかない。岡田は改憲に一般的には反対ではないと言いながら、しかし安倍政権の下での改憲だけでは、それがどんなものでも反対だと叫ぶのだが、自分が何を言っているのか、根本的に矛盾し、混乱したことを口にしているのかに、気が付かないのである。

 そもそも最近の民主党は、安倍政権と参院選で本気で、勝敗をかけて断固として闘う意思さえも怪しく、最初から負けるのを前提に発言しているとしか思われない。

 岡田は、1月末の大会でも、「政策・理念が共有され、本気で政権を担う政治勢力ができるかどうかが最も大切だ」と語ったが、共同する力として、松野維新の会を想定するのか、共産党の“無私の”応援を当てにするのかは知らないが、民主党の主体性を抜きにして、他の党派の結集か、後押しかは知らないが、そんなものに期待するような情けない党に、そして選挙ポスターで「すぐに信じなくてもいい。野党として、止める役割をやらせてください」と敗北主義に取りつかれ、泣きつくしか芸のないようなみじめな党に、果敢な闘いと勝利の未来がないことだけは確かである。

 こんな愚劣な立場で、安倍政権や、その反動政治や、陰険な野望や企みと一貫して、最後まで闘っていくことが決してできないことだけは100%確かであろう。

 安倍の強みは、彼がブルジョア世界が矛盾を深め、その中で新しい軍国主義、帝国主義が発展して来る時代が到来したという現実の中にある。彼はそんな中で、日本のブルジョアの立場を、彼らの帝国主義や国家主義の立場への移行を背景にし、また反映しているのであり、それ故に、自分が現実的な立場に立っていると確信することができるのである。

 帝国主義の発展する世界で、どうして国家防衛、祖国防衛の立場に立ないでいられるのか、というわけである。ブルジョア的立場に立つなら、人類の諸国家、諸国民としての存在や、その分裂や競争や対立さえも前提とするなら、日本の国家的存在は、つまり自衛のための備えや軍隊は不可避であり、不可欠であり、“絶対平和主義”の敗戦後の憲法は変えられなくてはならないのである。それがブルジョア的“現実主義”というものである。

 そしてブルジョア的“現実主義”に対抗し、それを圧倒し、打ち破って行くものが――行き得るものが――もしあるとするなら、それはただ、国家や民族や国民の狭い限界を超えて、軍国主義、帝国主義に反対して闘っていくことのできる、世界の労働者の国際主義的立場だけである。



改めて原発事故の総括を
「事故防止検討会」で語られたこと

 東京電力・福島第1原発の津波による事故は不可避であったのか、避けられたとするなら、なぜ事故に立ち至ったのか、その責任はどこに、誰にあるのか、という問いは、事故の当初から提起され、今に至っている第一義的に重要な問題である。

 同じ災害に、同じように直面しながら、福島第1とは違って、東北電力の女川原発(宮城県)や、日本原子力発電の東海第2原発(茨城県)がほとんど無傷であったのはなぜか、単なる偶然なのか、あるいは何らかの必然性があったのか。

 こうした問いを発してみるのは、原発事故を正しく総括し、今後の教訓としていくためには、避けて通ることのできないことであろう。

 福島第1の4つの原発の核燃料が熔解した直接の原因は、核燃料を冷却する水を供給するための電源が、海水の流入で機能不全に陥ったためであったが、それは、東電などが言いはやしいているように、単に「予測不能」といった問題ではないことが、この1月に開かれた、「原子力発電事故防止検討会」で指摘され、はっきり語られたのである。このことは重大な意味を持っている。

 東電の原発で事故が起こり、東北電力や日本原電の原発で事故が起こらなかったのはなぜか。理由は簡単である。後者の会社の原発では、海水の浸水を防いだり、電源喪失を回避する備えや措置が取られていたからであり、それ故、電源喪失という致命的な危機を免れることができたからである。

 東北電力の女川原発では、「最初から原発は高いところに建設しよう」と決められたため、海面から15メートルもある高台に建設されたが、他方東電の原発は、高台をわざわざ海抜10メートルまで掘り下げて建設されていた。女川原発にも13メートルの津波が押し寄せたが、海水は敷地にまで届かなかった。それにもかかわらず、海水が潮位計の配管を逆流して、非常用ディーゼル発電機8台のうち2台を止めたが、原発は全く無事であった。

 また日本原電の東海第2の場合も、ディーゼル発電機3台のうち、1台は海水にやられて止まったが、2台が守られ、ここでも大事に至らなかった。それは丁度、ポンプを囲う防護壁を高くする工事がかなり進んでいたためであった。3月末に完成予定で、電源ケーブルを通す穴がまだ空いていて、そこから海水が侵入し、電源の一つは失われたが、他の二つは機能し、それによって東海第2は守られたのである。工事が進んでいなかったら、福島第1と同じ運命をたどったといわれている。

 また、米原子力規制委員会が、同時テロの後、全電源喪失事故に対する、特別対策――これは、事故後、日本の原発で採用された内容とほぼ同じものであった――を米電力業界に指示し、それは日本の保安院にも伝えられたが、保安院から各電力会社に周知されたかどうかははっきりしないという。東電等は聞いていないというが、それが徹底されていたなら、東電の事故も予防され得たかもしれないのである。

 この検討会では、それ以外の重大な総括、反省も語られているが、要するに、東電会社で事故が起こり、他の会社で回避されたのは決して偶然ではないということである。東電が原発業界のボスであり、「安全神話」を振りまいてきた張本人であったことと決して無関係ではない。

 今や電力資本と自民党政権は、原発大事故など最初からなかったかに、原発の再開を急いでいる。我々が告発してきた、事故の原因となった、大資本の利益追求や無責任や隠蔽・傲慢の体質などはそっくり温存され、継続している。

 事故が最初から「想定不可能」とされ、あるいは“危険で”統御不可能な原子力エネルギーの“原罪”とされることで――奇妙なことに、これは原発大資本と、観念的な反原子力エネルギー論者の共同作業でさえあった――、原発事故に対する、電力大資本や自民党や政権や国の責任や有罪性の具体的な追及や実際的な総括や告発がぼかされ、棚上げされてしまったが、これこそ原発再開の本当の危険性を教えていないか。


焼糞のマイナス金利
アベノミクスの終着駅
はったりの黒田金融緩和は破たんへ

 日銀は1月29日、マイナス金利導入に踏み切った。“民間の”諸銀行の日銀預金に、マイナスの金利を課すというのである。金利と称しているが、事実上、預金に対して課徴金を、罰金を課すと同様で、“経済法則”に真っ向から逆らうものであり、うまく機能するはずもなく、ゼロ金利や量的緩和という金融政策が限界に達し、追い詰められ、展望を見出せなくなった黒田や安倍が血迷ってハチャメチャの冒険主義に走り始めたというしかない。せっかく量的緩和で銀行にカネをダブダブと供給したのに、そんな銀行が企業に貸し出すことをしないで、日銀に戻し、預けてしまい、「死蔵」するのは許されないというのである。しかし、実際の経済にカネ(利子生み資本)の“需要”もないのだから、銀行は余計なカネを日銀に預けて、せめて0・1%の利子を期待するしかないのだが、今やそれも日銀と政府によって「禁止」されるのである。

 ◆マイナス金利の“効果”

 黒田はマイナス金利の政策を、「中央銀行の歴史の中で、おそらく最も強力な枠組み」だと意味不明の言葉で自画自賛し、「追加の緩和の手段に限界はない」、「必要ならさらに金利を引き下げる(マイナス0・5%にも1%にもしていく)」、「物価目標に必要なことは何でもやる」などと大見得を切った。

 また、2%のインフレ目標の達成時は17年の前半頃だとして、当初の2年の倍になることも明らかにした。2年で達成の大言壮語したことを忘れたかに、三度――国会では民主党議員が、「四度目だ」と政府を追及していたが――、時期を先送りしたのである。公約違反も甚だしく、ただこのことだけでもアベノミクスと黒田金融緩和は、完全に破綻したと結論するしかないのである。

 破綻するだけではない、今後その恐るべき悪影響が日本経済を襲い、1980年代の資産バブルの時代がその後の長い停滞と不況の時代につながり、その原因をなした、あの経験の二の舞を演じないという保障は何もない。

 黒田日銀の考える、マイナス金利の役割もしくは“効果”とは、金利一般を低めに誘導することであり、またカネを通貨安や株価上昇をもたらす方向に誘導することである。

 しかしすでにここ10年、20年、ゼロ金利もしくはそれに近い誘導金利でやってきて、安倍政権になって、それでは金融政策としては不十分だからということで、リフレ派学者の勧めるとおりに、金利政策ではなく、「量的な」緩和策――日銀を通してのカネの直接的なバラまき政策――に走ったのではなかったのか。

 とするなら、最初から利子率低下に頼ることは、もとの手段に、平凡であり姑息であって、すでに無力なことが示されてきた手段に戻るということでしかない。ゼロ金利とマイナス金利と違うというなら確かに違っている、というのは、マイナス金利という政策はブルジョア社会、“市場経済”ではあり得ない政策、不合理で、“経済法則”に反する政策、そんなものに頼ることは邪道であり、後々に多くのゆがみや障害を残す政策でしかないからである(ゼロ金利政策自身、すでにそうだったのだが)。

 そもそも金利差についていえば、ゼロ金利と、マイナス0・1%の金利の差はわずかであって、銀行の貸し出しが増えないことの一番の原因は、過剰資本、過剰信用の結果、貨幣資本、貸付資本に対する「需要」が縮小しているところにあるのだから、わずかの利子率引き下げが、貸し出しの爆発的な増加をもたらすことなど、そもそもあり得ないのである。

 まして、銀行の200兆円の日銀預金の全体に、マイナス金利を適用するというなら、諸銀行もいくらかはあわてるかもしれないが、それはそのままであるというのだから、ただそれだけでも“効果”はないも同然である。

 ◆マイナス金利の「適用対象」

 日銀の説明によると、マイナス金利を適用する銀行からの預金の適用対象は、マイナス金利という耳目衝動的な大言壮語にもかかわらず、温和で、微温的なもので、それで実際的な“効果”を期待できるのかと疑うほどである。

 現在当座預金に積み上げられてきたカネ――もちろんその大半は、この3年間、年々80兆円ずつ購入され続けてきた国債の「対価」である――は、260兆円にも達している。

 そしてこの内の210兆円には現在0・1%の利子が付いている。リフレ派学者たちが、その撤廃を要求していた金利である。

 また40兆円くらいの“義務的な”当座預金等々の金利は、その預金の性格を考慮して金利は付かない、つまり0%である。

 そして2月16日からマイナス金利の適用が始まるのだが、“義務的預金”――と、一応呼ばせてもらう――は当然同様の0%だが、210兆円にも積み増しされた預金は、そのまま0・1%の金利付きのままにするという。

 理由は、それまでマイナス金利にすると銀行の収益の減少が心配だという、ありがたいご配慮からだそうであるが、日和見主義もいいところだ。口先だけは大げさに語ったが、黒田がゼロ金利政策に自信も見通しも持っておらず、断固としてやるどころか、へっぴり腰で、手加減するしかないのである。

 そして黒田はこれまでの公約通り、年々国債を80兆円ほどずつ積み増ししていくというのだが、その大半は“義務的な”預金と同様な0%の金利を適用し、ほんの一部の10兆円から30兆円だけをマイナス金利にするというのである。

 もちろん、これは銀行の行う預金だから、銀行が損を甘受してまでして、そんな預金はする気はないといえば、極端にいえば0円にまで減少するかもしれない数字である。

 日銀にいわせれば、だからマイナス金利というのはデモンストレーションであり、「心理」や「期待感」に働きかける政策だから、新しい預金のわずかの部分でいいというのだろうが、この金融政策はその中途半端さという点だけでも、その“効果”――そんなものが実際にあり得るとしてのことだが――は大きく割り引いて評価されるしかないのである、というよりむしろマイナスの影響の方が大きいかもしれないようなしろものである。

 つまり黒田はただ「アナウンス効果」だけを狙った金融緩和政策に乗り出したということになるが、しかしそんなものが一体どれだけの“政策効果”を発揮できるかは一つのスペクタクル、まさに興味津々の見ものである。これまでは、黒田の「期待感」を狙った緩和政策は80兆円もの国債の買い上げといった、実質的な内容を伴ったものであり、だからこそ、いくばくかの「期待感」を生み出すことができたが、今や黒田は実際的な内容の伴わないない「アナウンス効果」を、つまり本来の黒田のご立派な“主観主義哲学”を適用して見事な効果を生み出すというのである。我々は「お手並み拝見」を決め込むことにしよう。

 はったりや虚仮威し(こけおどし)や強がりや虚勢で国民全体を圧倒し、釣り、あるいはたぶらかすという、まさに“やくざ的”政権の化けの皮がはがれるときがいよいよやって来て、「期待感」をあおることが核心とされたアベノミクスや黒田の“経済政策”なるもののボロが暴露され、行き詰まりと破綻が今や余りにはっきりしてきたのである。

 ◆円安や株価上昇への“効果”?

 この面では、3年前に鳴り物入りで始められ、あるいは一挙に拡大された、金融の量的緩和政策――露骨な日銀券のバラまき――の“効果”は抜群であったかである。

 しかし今、その効果もあやしくなり、効かなくなったからといって、苦し紛れに持ち出されたようなマイナス金利といった際物の政策に、どんな期待が持てようか。

 仮に諸銀行が、国債投資を止めたからといって、あるいは日銀預金を止めざるを得なくなったからといって、諸銀行は投資銀行ではないのだから、その金が直接に株式に向かうわけではない。

 千何百兆円もの個人の金融資産が、低い預金金利を嫌って銀行から引き上げられて、株に投資されるようになるなら、つまり長年言われてきた「貯蓄から投資へ」という合い言葉が実現するなら、大きな「資金移動」がありえるかもしれないが、そんなことがあり得るとするなら、これまでにすでにそうなっていただろう。マイナス金利こそ、それを可能にする切り札だなどと考えるのはばかげている。

 それに株の実力からかけ離れてカネを株式市場に動員して、バブルを演じることに、どんなメリットがあるというのか。1980年代、金融緩和によって株価を4万円にも引き上げてバブルに浮かれた結果、その後、長い、長い不況や経済の停滞に苦しんだ経験は、それほど昔の話ではない。しかも現在の2万円近くまで引き上げられた株価は、すでにバブルでないと誰が確言できるのか、かつて7千円ほどに低落していたときから見れば、三倍にも上昇しているのである。

 リフレ派学者の岩田一政は、マイナス金利政策の2番目の“効果”について、次のように語っている。

 「もう一つはリスク性の資産〔株などのこと〕の購入が増えて、市場環境を好転させる効果だ。国債の利回りが低下すると、投資家のお金が国債以外の株式や外債等に向かいやすくなる。その結果、株価が上がれば資産効果によって個人の消費が刺激される。企業の資金調達も容易になる。円高圧力が緩和されれば、輸出企業の業績悪化も防げる。昨年来、円高が進行し、人々の心理を悪化させていた。それを防止する効果は特に重要だ」(日経新聞2月7日)

 相も変わらず、何とかの一つ覚えのような詭弁である、すなわち、まともな因果関係も論理性もない屁理屈のたぐいである。

 国債について言えば、今は超低利である、つまり価格は高騰している。「市場」――これは金融・資本市場という意味である――でもてはやされ、愛好され、よく買われているということだが、それは国債の現実を反映しているわけではない。財政崩壊の中で大量に国債を発行し続けるなら、国債の利回りは高騰する、というのは、国債の価格は暴落して当然だからである。

 にもかかわらず、国債の利回りが最低であるのは――つまり暴落して当然の国債価格が上昇するのは――、日銀が政府の発行する国債を片端から買い占め、さらにその同量ほどの既発国債を、銀行などから買いあさっているからである。だからこそ、国債の価格は騰貴するのであり、その利回りは低落するのである。つまり現在の国債の最低の利回りは、単に政府が無責任な借金財政に走っているからではなく、日銀が国債を買い占めることによって人為的に国債の価格がつり上げられているからである、危険極まりない、国債バブルからきているのである。

 そんな危険極まりない、日本の国債が「安全資産」として人気の的というのはお笑いだが、世の中が根底から腐り、間違っている、狂っていると考えるしかない。さらなる混乱と破綻は避けられないだろう。

 このゆがみは、ただ国債の価格暴落によってのみ清算されるのであり、そうなるしかないのである。そしてそうなれば、政府はどんなに高利を約束しても、国債を誰も買ってくれない状況に追い込まれるのである、つまり破産した国家として、ギリシャと同様な、誰もカネを貸してくれない、本当の国家破産に直面するのである。

 人為的に引き下げられた通貨価値、つまり為替相場の低落(円安等々)もまた同様である。仮に極端な低金利政策を取るなら、国内の貨幣資本は外国の利回りの高い投資に走り、カネは国内から外国に流れ、かくして一時の円安が可能になるかもしれない、しかしそんな円安は通貨の実際の交換比率を反映した円安とは別の、たまたまのものであり、そんな円安を利用しての輸出の増大もまた実力によるものというより、仮初めのものである。円安が実態を反映したものに戻るか、逆に振れ、揺れるかするなら、企業経営はたちまち暗転しかねないのである。もっぱら政府がそんな一時の政権の利益のために経済政策を運用し、悪用するなら、企業経営や活動はいいように振り回され、たちまち動揺し、不安定になり、頽廃して行きかねないのである。

 安倍政権は円安誘導で、世界に安売りできて、輸出大企業がウハウハ状態で、景気回復だと浮かれているが、円安誘導による競争力といったものは表面的、名目的で、一時的なものであって、生産力の上昇や商品価値の減少による本ものではないのだから、為替相場が一変して上昇に転じるなら、為替安への強引な“政治的”誘導は手ひどいしっぺ返しをくらうだけである。

 あるいは、財政崩壊やインフレ経済にはまり込んで、そんな経済紊乱や崩壊の結果としての、際限のない円安に転落して行きかねないのである、そしてそんな状態に追い込まれれば、通貨安による国際債務の増大や、輸入物価の恐ろしい上昇に苦しむのである(すでに日本は苦しんでいる。石油価格の低落という幸運があって助かり、ホッとしているというが、しかし実際には、原油安のメリットは円安のために、1割も2割も減殺され、削減されているのである)。円安とは日本の労働者、勤労者の労働の安売りである、つまりことさらに安く売って、高く買うことであるのだから、円安に浮かれているならろくなことにならないのである。

 そもそも最近では、黒田も、これ以上の円安はすでにメリットよりもデメリットになりつつある、行きすぎだと言わざるをえない段階にきていたのである、そんなときに円安誘導で、経済の繁栄を可能にするという政策、マイナス金利の政策――それが仮に本当に効果があるとしても――を採用していいのであろうか。

 マイナス金利の新政策もまた、安倍と黒田の政策の根底である、円安誘導や株価高騰の演出――安倍政権の生命線――が本当の目的であることは明らかだが、しかし彼らは「柳の下にいつも泥鰌はいない」という箴言を知らないだけである、それを悟るわずかの知恵もないことを暴露するだけである。

 世界には、自国の通貨安が止まらず、物価高(進行するインフレ)に苦悩する多くの国があるが、日本経済も頽廃し、衰退して、そんな諸国の後を追うことのないように願うのみである。

 ◆マイナス金利は安倍の放漫財政を助け、国家破綻に拍車を掛ける

 これまで日銀の量的緩和政策が、政府の借金膨張政治に「ファイナンスしている」ことは明らかだったが、今回の究極の低金利政策つまりマイナス金利政策がさらにこの趨勢を推し進めることは確かであろう。

 ゼロ金利などの低金利は国債の利子を最小限に縮小する限りで、政府の国債発行をより容易にし、膨張させる。というのは、それは利子負担を考えることなく国債を、つまり国家の債務をいくらでも膨らませていけることを意味するからである。それはまた単に新規の借金に限られるのではなく、年々百数十兆円にも膨れあがってきた借り換え債の利子率も劇的に低下することでもあり、政府にとって大きな財政負担の軽減となるからである。借り換え債の利子率が数%からゼロ金利に低下するなら、政府の利払いはたちまち兆円の規模で減少し得るのである。

 しかし国債の利子率が下がると、国債を買う金融機関や個人は、それに比例して少なくなるはずだが、咋今は日銀がいくら利子率が低くても国債をいくらでも買ってくれるのだから、銀行は低い利子率であろうと何であろうと、どんな心配もなく国家から買って、それにマージンを付けて日銀に転売すれば立派にもうけることができるのである。だから政府はいくら低利率でも――通常は誰も買わないような――、国債を思うがままに発行するのであり、し続けることができるのである。低金利であろうとなかろうと、国債の発行が滞りなく進むような虚構の体制ができあがっているのであり、かくして国の金融や財政のバブルへの道が、したがってまたその崩壊への道が掃き清められ、一直線に続いているのである。

 返済の見通しが全くないような、千兆円もの借金を背負い、事実上破産しているような国家の債券を低金利で買うような愚か者は本来は全くいないはずだが、今の日本にはいくらでもいるのである。そしてそれが正常ではなく、途方もないことであるという自覚さえなく、どんな危機意識とも無縁である。

 破産したギリシャの国家は、10%、20%というような、驚くべき高利率でなくては、国債を売ることができなかった、つまり借金をすることができなくなった。それは借金の重荷で押しつぶされそうになった国家として、ある意味で当然であった。そしてそんな高利の借金を積み重ねるしかないとするなら、国家の破産は一層悪化するだけであり、まさに破綻の悪循環のわなにはまり込んでいくだけであった、そしてそれは国家の破滅さえ意味した(事実、今ギリシャは、EUとその金融資本の債務奴隷の地位に陥った、みじめな破綻国家とさえ呼べる国家に転落している)。

 日本はギリシャ以上の財政悪化の中で、事実上の破産状態にありながら、どんな深刻な危機意識もなく、のうのうと低利の借金を積み重ねているということは、浮かれ、喜ぶべきことか、それとも眞に戦慄し、恐怖すべきことか、それが問題である。

 ◆2%の物価上昇に“貢献”できるか

 黒田の本来の目的は、物価上昇2%を確実に達成することであり、そのためのマイナス金利だとおっしゃっている。しかしマイナス金利で、それは可能であろうか、そのための手段となり得るであろうか。それも問題である。

 しかし徹底した低金利自体には、直接に物価上昇をもたらす機能があるわけではない。低金利なら、企業や消費者が投資や支出を増やすだろうというわけだが、企業活動や国民の消費が活発になることと、物価上昇とは直接的な関係はないし、またそもそも低金利で企業活動が活性化したり、国民が余計に消費に走ると、一概に、必然的な因果関係としていうことはできないのである。他の多くの要因によっても影響を受け、左右されるのであって、低金利によって一義的にそうした結果が生じるわけではない。

 低金利がそうした結果に直結するというなら、すでに10年、20年続けてきたゼロ金利でも十分であったはずだが、そうした“成果”はほとんど生じなかっただけではない、ゼロ金利自身が“正常な”経済関係を歪め、いたるところに“カネ余り”をはびこらせ、バブルや“悪性”インフレの種をまき、準備する等々、多くのマイナスの作用を、弊害を生んできたのであり、今もそうである。

 そんなときに、マイナス金利などを持ち込むなら、そんな邪道に走るなら、のちに深い後悔をまたまた繰り返すことにならない保障は何もない。バブルや空景気などと共にやってくる、物価上昇やインフレにどんな積極的な意味があるというのか。えせ景気に期待する、頽廃したブルジョアと違って、労働者、勤労者はそんなものにどんな期待も寄せないし、幻想も抱かない。

 低金利を強要して、銀行に貸し出しを増やせといっても、そもそも銀行が日銀にカネを滞留させているのは、好んでやっていることではなく、産業資本が今はカネならいくらでも持っており、しかもそれすら投資する対象や必要性もなく、銀行貸し出しに期待していないからである(もともと量的緩和政策そのものが、すでにそんな理由で限界にきていたのである)。

 こうした現実があるのに、それをそのままに、マイナス金利で諸銀行に貸し出しを強要し、貸し出しを増やせと強要するのだから、そんなとんまな“政策”しか実行し得ないというのだから、安倍政権も黒田日銀も完全に手詰まりとなり、焦り、そして今やろくな“経済政策”も持ち合わせていないということである。

 日銀が“異次元の”金融緩和で銀行に大量にバラ撒いたカネを、いわば強制的に流通させようということで、これはすでに日銀券の紙幣化であり、その出発点というしかなく、安倍政権に残っている“金融”政策は、その限界を超えて、紙幣の発行にまで行き、そんな形でインフレ経済を労働者、勤労者に、国民の全体に強要するしかないということを示唆している。

 ◆日銀に累積されたカネの行方

 かつて我々は「預金通貨」の概念について議論したことがあったが、そんなおり、“官許経済学”に追随した諸君は、ブルジョア的通貨概念を擁護し、通貨とは流通する日銀券と、日銀の準備預金の和であり、それが「ベースマネー」であるなどと強調したが、現在、日銀に巨額の準備預金が累積したのに、ほんのわずかのインフレさえも生じなかったとするなら、「預金通貨」説の俗論は経済の現実の過程によっても完璧に暴露され、リフレ派的なこうした悪しき「貨幣数量説」は完璧に破綻したと結論するしかない。

 もちろん大銀行は、仮に日銀預金によって稼げなくなっても――ゴールドマン・サックスの試算によれば、日銀のマイナス金利による諸銀行の利息収入の減少は770億円だそうである(日経新聞2月8日)――、その分を別の手段でカバーすることはできる。貸し出しを増やすことができればおやすい御用だが、今はそれは厳しいとするなら、例えば国民の預金金利をさらに引き下げることによっても――仮にマイナス金利は無理としても――、あるいは似たようなものだが、預金手数料等の増額によっても、日銀預金からの利得の減少や消失を補うことができるだろう。

 しかしそうした手段に走ることは、結局は国民全体から多くの所得を追加的に収奪することであり、国民の犠牲によって困難を回避することである。

 しかし累積した、あるいはさらに累積しつつある、日銀券は一体どこに行くのであろうか、いかにしてこの過剰な日銀券は経済に吸収され、解消するのだろうか、できるのだろうか。政府と日銀が1千兆円にも及ぶ国家債務を返済し、“吸収”するというのだろうか。そんなことができないこと、事実上とっくに破産している国家に、そんな返済能力が全くないことは一目瞭然であり、誰もそんな過程を信じていない。

 とするなら、残る手段はインフレを――マイルドのインフレではなく、ギャロッピングのインフレを――短期間に、徹底的に進行させ、そんな形で労働者、勤労者を有無を言わさず、とことん収奪し、国家の過剰債務を一掃し、国家を救済するやり方だけである。そのための究極の手段は、日銀券の国家紙幣化の加速化が、あるいはもっと端的に、日銀券に代わって国家紙幣が登場しなくてはならない。

 日銀はいまや日銀券に対してマイナス金利を強要するという。つまりこれは日銀券を強制的に減価することでもあり、我々が強調してきた、日銀券の紙幣化をさらに推し進めるものである。

 安倍政権も黒田日銀も、すでに麻薬中毒の深みにはまり込んでしまい、そこから抜け出すことができなくなっている。彼らはますますひどくなる、麻薬中毒の症状に怯え、それを克服しようとするだが、それにはますます麻薬に頼らなくてはならないような心理的、実際的な状況に追い込まれている。

 今回のマイナス金利政策の採用についても、岩田一政は、マイナス金利政策を採用しなければならなくなったのは、これまでの量的緩和の政策が“効果”を発揮せず、反対にデフレ圧力が強まって、「放置すれば、アベノミクスが逆回転する恐れがあった」からだと“正直に”白状している(日経新聞2月7日)。

 アベノミクスの3年にも及ぶ実践の結果、「アベノミクスを逆回転する恐れ」が出るような状況になっているというなら、それはまさにアベノミクスの破産であり、アベノミクスの“効果”といったものが本当のものではなく、表面だけ、一時的だけのもの、まがい物であったということである。

 今やブルジョア諸氏は、次のような“最後の言葉”を公然と口にするまでになっている。

 「最後の手段として考えられるのが、文字通りお金をばらまく『ヘリコプターマネー』だ。政府や個人による財とサービスの購入を促す目的で、恒久的に紙幣を増刷する政策である」(日経新聞2月7日、マーティン・ウルフ)

 資本主義的生産にとっては、現代ブルジョアらにとっては、経済がうまく動き、繁栄するには「需要」が必要であり、そのためには政府や個人が金を持っていてモノ(商品)を買うことが不可欠である、だから政府がカネを無尽蔵に印刷し、ヘリコプターでバラまけば、資本主義は万々歳で永久だというのである。ブルジョア社会が生き、栄えるためには、寄生的な人口のみがはびこり、存在しなくてはならないという、恐るべき、転倒した、そして荒唐無稽のイデオロギーである。まさに現代資本主義の頽廃と腐朽を表現し、暴露する究極の言葉であろう。そして現代の資本主義の下では、こんな奇矯で、歪んだ言葉が「人口に膾炙(かいしゃ)する」のである。

 とするなら、現状を克服しようとするなら、アベノミクスや黒田の「異次元の」、つまり暴走する金融緩和を否定し、一掃することから出発すべきだが、もちろん安倍一派も黒田日銀もそうすることはできず、アベノミクスや金融緩和の破産に対して、ただそれらを一層推し進め、極端化する形で対応しようとするのだが、当然のこととして、そんなものはただ傷あとを一層切り裂き、拡大するだけであり、安倍政権を1日も早く粉砕して政権の座から追い出す、緊急の必要性を明らかにするだけである。

 ◆破綻する黒田のイデオロギーと金融政策

 黒田は今なお、自分の金融政策を「マイナス金利つきの金融の量的質的緩和」策などと“命名”して悦に入り、「異次元ならぬ」、三層構造で「三次元の」強力なものだと自慢しているが、すでに問題はそんな悠長な言葉遊びにふけっている時ではないということが分かっていない。

 黒田は3年前、「異次元の」金融の量的緩和政策を打ち出した時、それを「量的、質的緩和」と呼んだが、それはゼロ金利政策でも限界があると総括し、量的な緩和――国債を大量に日銀が買い上げて、通貨つまり日銀券を直接に大量に「市場(金融市場)」に投げ入れるということ――の限界内で言われたにすぎなかった。つまりは、そこで言われた「量」とは国債の買い上げの量を「無制限」に増やして行くということであり、「質」とは買い上げる国債を長期国債にシフトして行くということであった。

 しかるに黒田は今は、かつての「量的、質的な緩和」に「マイナス金利」を加えて、「マイナス金利つきの量的、質的緩和」という「三次元」の金融政策についておしゃべりしている。まさに大げさな言葉によって、そんな空虚な言葉だけによって、自らの政策の貧弱さを補い、隠さなくてはならないのである。

 しかし問題の核心は、「量的緩和」政策が行き詰まり、3年前に効果がすでにないとされた、古い「金利」政策に再び逆戻りしたということでしかない。ゼロまで利率を低めた金利政策で効果がなかったとしながら、しかし今度はマイナス金利だから別だ、大いに効果が認められる、大丈夫だといっても、たかが0・1%の金利引き下げに過ぎず、しかもその及ぶ範囲は極めて制限されている。そもそもゼロ金利でさえ、正常な、あるいは通常の経済関係ではブルジョア社会ではあり得ない政策、あってはならない金利政策――自己否定の政策――で、金融・信用関係を極端にゆがめ、その正常な機能を失わせて行くなら、マイナス金利にまで踏み込むことは一層ナンセンスであり、一層有害であり、資本主義の歴史的な機能停止や解体や否定や止揚に行きつくだけである、ということになりかねないのである。

 黒田は無責任に「三次元の」金融緩和だともったいぶって言葉遊びに耽るが、要するに問題は、これまでの金利政策も量的緩和政策もともに一時的にはともかく、結局は“有効性”を持ち得なかったこと、人為的な政策によってブルジョア社会の矛盾を克服することは決してできなかったということである。そのことが、この間の実際的、歴史的な経験的によっても明らかにされたのである。

 黒田日銀の思惑は単純であり、明白である。せっかく金融の量的緩和政策で、年々80兆円もの国債や、それ以外の証券も買いあさり、銀行に日銀券を湯水のようにバラまくのだが、銀行はそれを貸し出そうとも、利用しようともせず、日銀に預けっぱなしにしている、これではバラまく「効果」もないも同然であり、そしてバラまいた、せっかくのカネがいわば「死蔵」されているとするなら、景気回復も需要拡大も通貨安もあり得ないし、インフレもやってこない、何としてもこのカネを銀行が使うようにし向けなくてはならない、というのである。

 リフレ派のインテリたちは、すでに以前から、こうして「死蔵」されているカネに利子を支払うのは量的緩和政策の趣旨に反している、利子支払いを止めよ(あるいはその金にマイナス金利を付けよ)と叫んできたが、そんな筋違いの、荒唐無稽で、野蛮な政策に黒田は足を踏みいれたのである。

 野蛮な政策だというのは、預金に対して、それを引き出させようとして「利子」を払えと要求するような政策は、つまりは預金を止めよ、さもなければ罰金を課すというも同然だからである。日銀もまた銀行である限り、自分は普通の銀行ではなく、「中央銀行」であり、金融の平凡な法則の当てはまらない、いわば金融界の“超法規的な”存在であると言っていいのだろうか、そして、そんな“超法規的な”、つまりこの世界の“経済法則”を無視したやり方が本当にとんでもない結果をもたらし、破綻に行き着かないと嵩(たか)をくくっていていいのだろうか。

 マイナス金利とは、国家による、日銀による一種の強制であり、罰金である、つまり量的緩和のカネを日銀の当座預金に滞留させていることは犯罪であり、あえてそうするなら罰金を払えという政策である。バラまいた日銀券を何が何でも通貨として、貸付資本として活用せよ、さもなくば罰を与えるという政策、強制政策である。

 銀行は余ったカネを日銀に預けられないとするなら、したがって日銀券を紙券のままで保有しなくてはならないとするなら、やむをえず急いで倉庫でも準備するしかないのだが、そんな無駄ごとを避けるには、日銀に対する、国債の販売を止めるしかないし、それ以前に、国から国債を買う(引き受ける)ことも控えなくてはならないということになる。

 しかし国債の日銀への販売は、諸銀行にとって、国(政府)の発効する国債をいわばいくばくの儲けを得て転売しているも同然の、居ながらにして儲けをかすめ取ることのできる、すてきな商売だから、簡単に止めるわけにも行かないし、それに国からせっせと国債を買う――困難な財政に「ファイナンス」する――ことは、安倍政権に、あるいは“国策”に協力する善根者の勤めでもある。

 そもそも問題の出発点は、黒田日銀と安倍政権が協力して、金融の「質的量的な」緩和政策を強行し――デフレを一掃する、つまりインフレを呼び込むという、“良き”意図に基づいて、というより、ピント外れの幻想に捕らわれて――、日銀券を、通貨をやみくもに、無制約に増やそうとしてきたことである。

 しかし現実は彼らの“良き”意図に反して、バラまかれたカネは経済や流通の中に入り込み、吸収されてめでたく2%の物価上昇を、デフレの究極的な克服とインフレをもたらす代わりに、日銀の「準備預金」に逆戻りするとして、いたずらに積み上がるだけであつた。人為でもって、「期待感」でもって、カネをバラまくことでもって、経済の現実、とりわけその根底である「実体経済」を――「金融経済」も結局は同様だろうが(バラまきによって舞い上がった株価の崩落を見よ)――思うがままに左右し、誘導し、経済成長や景気回復を可能にすることはできなかったのである。

 そして今や、そのカネは日銀に戻ってくるべきではない、それは生きたカネとして、経済の中で、デフレ克服のテコとして機能させなくてはならないと、黒田は銀行や企業にいわば命令し、強要しようというのだが、余りにトンマで、独りよがりというしかない。カネをバラまいてインフレを招来し、それで経済を支配し、思うがままに動かしたなどと思うこと自体錯誤であり、ナンセンスだが、しかしそれ以前に、「異次元の」金融緩和を3年間もやって、たった2%のインフレさえ実現できなかったというなら、とことん無能無策であったとともに、運にも見放されたというしかない、というのは、そんなわずかな物価上昇は、現実の経済過程ではいくらでも生じ得ることだからである。

 貨幣(通貨)の「価値」が上る――物価が下落する――のは、悪いことだとリフレ派は考える。しかし実際には、こうした観念はリフレ派の立場――需要拡大、したがって投資拡大、消費拡大こそが正常な、あるいは繁栄経済にとって最も重要である云々――からしても間違っている。

 というのは、しばしば――というより正常な経済の状態では、通常――、低価格こそが経済の繁栄つまり安倍政権が強調してやまない「経済成長」や「景気回復」の原動力であるのは明白だからである。

 企業が資本を投下する、あるいは投資や生産を拡大するときは、一般的に価格が低落しているときである、というのは、その時には貨幣資本の「価値」が高くなるときであり、投資が、つまり設備や機械や労働力を購買するのに安くて有利な時だからであり、また価格低下に対抗しようとして、個々の資本がより新しい、生産性の高い機械等々を手にし得るとき、新しい拡張的な経済循環が始まり、上昇過程に移っていくときだからである。

 資本にとって低価格は、投資のチャンスであり、儲けのチャンスでもある。投資や事業の開始にとって有利で希望を持てる状況であって、不況の原因といったものではない、むしろそれは不況や恐慌の結果であり、新しい経済活動の始まりの時期でもある。価格が低落に向うとするなら、それは不況や経済停滞の結果であって、原因ではないのだから、物価上昇によって好況を望み、期待する云々は、「木によりて魚を求るが如き」のたぐいの、的外れの観念に過ぎないのである。

 資本は“物価”が低落するからこそ、自らの「価値」が商品の価値に対して相対的に高まっているからこそ、新しい事業開始や拡大に積極的になるのであって、それは“需要”の側の物価が騰貴していなくても、あるいはむしろ騰貴していないからこそ、一層そうなるのである。少なくも、物価が上昇しているかどうかということは、理論的にも実際的にも無関係である、というのは、個々の企業にとって、販売するときも購買するときも、通常の経済においては価格水準は同一であると言えるからである、そのことが前提されるからである。

 そしてまた、個々の資本家の購買の過半は、他の資本家の販売であり、逆もまたそうだから、価格が低落したということは、資本家全体にとっては少しも苦になることではない。労働者にとっては、賃金つまり労働力の価格の上下が、一般商品の価格の変動に並行し、伴走しない限りで、特別な意味と意義を持つのだが、それはまた個々の商品の価格と全体の商品の価格との偏りということとは区別されるのである(この問題については、ここでは論じない)。

 だから、物価下落を「デフレ」と呼び、忌み嫌うのは現代のブルジョアの悪癖であるのだが、それは彼等の経済的困難や、破綻さえもが自分の商品が売れないことから、つまり需要縮小や消費低迷に、価格の低落にあるかに見えるからである。しかしもちろん、不況や恐慌や、そこから生じて来る価格低落や多くの企業の破綻の本当の原因は、過剰生産や過剰信用として現象する無政府的な“過当競争”や、やみくもに膨張するブルジョア的生産関係にあり、したがってまた、その崩落にあるのであって、「デフレ」つまり低い価格水準や、継続的に低迷して行く価格にあるのではない。

 ◆安倍と黒田の“経済いじり”を一掃せよ

 ブルジョア理論家――とりわけ、その最悪の一派であるリフレ派――は、物価が下がると(厳密にいうと、下がり続けると、ということだが)、人々や企業はカネを使わなくなり、消費や投資が縮小して不況になる、というのは、将来もっと物価が下がると「期待」してカネを使うのを先延ばしするからだ、そんな「心理状態」(デフレ・マインド)になるからだといった俗論を振りまき、そんな立場から、人々や企業に「インフレ・マインド」(インフレ期待の精神状態)を持たせることが“経済”政策の根底であり、出発点である、「経済成長」や「景気回復」のカギを握っていると言いはやして来たのである。インフレがやって来て、しかもそれが継続するなら、人々や企業は貨幣価値の縮小を心配して、大急ぎでカネを使うだろう、そうすれば需要も膨張し、従って景気も回復して「デフレ」も一掃されるではないか、というのである。

 だから彼等の「デフレ」概念は、単なる物価低落の状況ではなく、絶えずそれが継続して行くことであるが、しかしそんな観念を持ち出すなら、そもそも「デフレ」がここ20年、30年の日本経済の停滞の原因であったという、そもそもの彼等の根底の理屈さえ無意味になるということに気がついていない。

 というのは、バブル以降の日本の物価指数を簡単に点検するだけでも、物価が絶えず、継続的に下がり続けて来たといったことはないし、あり得ないからである。むしろ平均的にいうなら、せいぜい横ばいであった、その意味では「安定的」だったというくらいの変動であるにすぎない。どんどん下がり続けて、合計して10%、20%にも下がったなどということはないのである(そうであったら、労働者の実質の生活水準もずいぶん上ったかもしれないのだが、そんな気配は全くなかった)。

 ただこのことだけからも、リフレ派の――安倍政権の――経済理論や、それに基づく政治や政策といったもののいかさまぶりが、いかがわしさが明らかになるのである。彼らはこうした半デマ的観念から出発して、インフレ経済に賭けたのだが、最初から途方もない勘違いと錯誤からスタートしたのだから、彼等の希望は単なる夢想と化し、結局は行き詰まり、破綻するのは一つの必然であった。

 黒田や安倍が頼ったのは、国民の「心理」が、つまり「デフレマインド」が「インフレマインド」に変ることであり、変われば経済の困難な状況が一変して、輝かしい経済成長や景気回復がやって来るということだったのだから、そしてインフレ「期待感」をはびこらせることだったのだから、最初からナンセンスだったのである。

 というのは、彼らは「心理」や「期待感」に働きかけるのに、どんな方法を用いるべきかについて、どんな確かな観念も持っていなかったから、持つことができなかったからである。

 そもそも「期待感」と言った、主観的で心理的な契機に訴えるのに、彼らはどんな方法を持ち合わせていたのであろうか。常識的に考えられるのは、人々の主観的、精神的な契機に、「マインド」や「期待感」や心の持ち方にもっぱら訴えるというなら、それは実際的な契機ではなく、精神的、心理的な契機によってなされるべきであるが、しかし黒田も安倍も、そんな手段は持ち合わせてはいなかったし、またそんなものがあり得るはずもなかったのである。つまり最初から、観念論者――その中でも、もっともナンセンスな主観論者――の黒田や安倍は破産していたのである。

 彼らが実際に頼った手段や「方法」は、最初からもっぱら現実的なものであって、主観的、精神的なものではなかった、つまり彼等は「デフレマインド」を「インフレマインド」に一変させるためには、「異次元の」金融緩和という、もっぱら“非精神的な”やり方を持ち出すしかなかったのである。

 言葉だけは「異次元の」とか、史上かつてない方法だとか、今回のマイナス金利導入に際しても、「中央銀行の歴史で最も強力な仕組み」といった、いささか意味不明の意義付けをするなど、誇張やはったりやこけおどしという「心理的な」手法に頼ったが、それは実際のやり方が少しも非実際的、精神的なものではないことをごまかし、覆い隠すためのものでしかなかった。

 実際、黒田や安倍のバラまき政策は、彼ら自身、「マインド」の転換のためなのか、単に「デフレマインド」を一掃し、「インフレマインド」に反転させるものなのか、それで済むのか、それとも実際に「デフレ」――継続的な物価下落――や経済停滞や不況を克服するためのものなのか、区別などなかったのであり、区別さえつかなかったのである。あるいは彼らは、「デフレマインド」の一掃と、現実のデフレの克服とを同一視した、あるいは混同しただけだったのである。

 彼らは精神にもっぱら働きかけることによっては「期待感」を変えることができなかったのであり、結局現実的に働きかけることによって「期待感」を変えようとしたのだが、しかし現実的に働きかけて、現実を変えることができるなら、「期待感」なぞ持ち出す必要はなかったのであり、あるいは、現実的な働きかけによって、現実を変えることができないなら、観念によって、人々の「期待感」によって変えることは、なおさらできないだろうから、結局、黒田や安倍の目ざしたものは、つまり彼等の戦略は、最初から一つのナンセンスで空虚な循環論理であり、また最後までナンセンスのままであったと結論するしかないのである。

 かくして観念論者たちの3年間にわたる“戦役”は、いまやめでたく完璧な敗北として終わるのである。

 だから黒田の「心理的な」働きかけというのは、政権の維持と野心と虚名だけを追い求める安倍に、その場限りの“政策“を駆使して奉仕するという彼の政策の本質をごまかし、隠すためのぺテンであって、安倍と黒田の金融バラまき政策には、インフレ経済に未来と希望を託するしかない、展望なく頽廃して行く日本のブルジョア階級の立場が反映されている、否、反映そのものの政治なのである。そこにはとりわけ、腐敗した金融資本の利益や思惑や陰謀さえ隠されているのである。

 今こそアベノミクスの有害さと偽りを暴露し、そんな「反緊縮」政策――共産党もまたこんな反動的な政策を安倍と共に愛好し、賛美して、労働者、勤労者を裏切るのだが――を粉砕し、安倍政権打倒を現実のものとして行かなくてはならない。アベノミクスは今では安倍政権の目玉商品でなく、欠陥商品に、重荷に、安倍政権を脅かす爆弾になりつつあるのである。

 かくして安倍政権に残るのは、国民に対外的な“危機”や“危険”をわめき立て、あるいは自らそんなものを演出し、他国を挑発しつつ、ますます国民全体を軍国主義に導いていく政治だけである。そんなものだけが安倍政権を救い、延命させ得るものとして現れて来るということだから、労働者、勤労者にとって、国民全体にとって、“危険”で恐るべきものがもしあるとすれば、今や安倍政権にまさるものは何もない。

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