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マルクス主義同志会機関紙
『海つばめ』◆隔週日曜日発行
一部200円(税込み210円)

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憲法改悪といかに闘うか?
安倍内閣打倒を掲げよう!


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望
■えせ教育基本法成立に際して訴える――今こそ反撃のための戦線につけ



全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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または各支部・会員まで。
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第50号
2007年4月(定価840円)

《特集》改憲策動といかに闘うか
――ブルジョア憲法の歴史的位置づけ
・日本国憲法――その基本原理のブルジ ョア性
・現行憲法の成立過程を検証する
・経済大国から軍事大国へ――改憲策動の歴史
・日本共産党と憲法――プチブル党の裏切りの歴史
・一八四八年のヨーロッパ革命と「憲法」

 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
  または各支部・会員まで。
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まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動


●1048号2007年7月29日

【一面トップ】横行したデマゴギー政治
 年金ミスは職員のせいとわめく――「美しい国」封印の安倍選挙

【主張】お仕着せ“革命家”宮本顕治
 “スターリン主義”の呪縛にとらわれて

【一面サブ】東京選挙区/増えた議席はどこへ
 共産か川田か はたまた……?
【草枕】原爆正当化論の「克服」
【コラム】飛耳長目
【二〜三面】国家主義と外国人労働者問題
 使い捨ての“機械”として野蛮に搾取
 ――半奴隷状態の外国人労働者あまた
【各地の“草の根”政治】茨城/安倍のお坊ちゃま仲間
 でたらめ経費の赤城農相
【中国便り(17)】浙江大学の毛沢東象――その将来はいかに
【四面トップ】マルクス超克の甲斐なき試み
 『集中講義!日本の現代思想』を読む
【四面サブ】林紘義氏の新著紹介
 『不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』――不破の理論的マジックを暴く


横行したデマゴギー政治
年金ミスは職員のせいとわめく
「美しい国」封印の安倍選挙

 『海つばめ』が読者の手に渡るころには、参院選の結果もほぼ明らかになっているだろう。安倍が勝つのか負けるのかは、この原稿を書いている時点では明らかではないが、しかし我々はただ一つ、この選挙戦で安倍が採用した“戦術”――というより、汚い権謀術数――についてははっきり確認しておく必要がある。それは安倍が権力を維持し続けて行く、行かないにかかわりのない、今後の日本のブルジョア政治の行く末を示す一つの顕著な特徴だからである。安倍は小泉政治や石原都政などにおいて明らかになった、権力主義的、デマゴギー的政治をさらに進め、深化したのである。我々はさしあたり、そのことを明らかにし、読者の警戒心を喚起したい。

 自民党や公明党の選挙はますますデマゴギー的性格をつよめたが、それは個々の候補者においてもはっきり見られたのであった。

 例えば、自民党の候補者たちの中に、安倍の余りの不人気おびえ、小泉のかつての成功(「自民党をぶっつぶす」云々)にならってか、自らあからさまに身内を、つまり自民党や安倍内閣を批判することで生き残りを策す連中が出てきたことである。しかし、柳の下にいつもどじょうがいるとは限らないのである。

 七月十六日には、高知選挙区の自民党候補者の田村は、「絵に書いた『美しい国』で応援に来られて適当なことを言われたら、バカにされるような気がする」と啖呵を切り、岡山の候補は「与党への批判は率直に受け入れ、変えるべきところは変えます」と殊勝に語り、あるいは神奈川では比例区の候補までも、「本当に次から次へとアホな大臣が出てくる。何をやっとるんだということですよ」、「こんな自民党は叩きなおさないといけない」と絶叫したのであった。

 また長野の自民党候補は、久間前防衛大臣はバッジをはずすべきだ(議員を辞職すべきだ)といきまき、「郵政解散で議席を大幅に増やし、重要法案が通って自信過剰になっている」と、自らの政党を批判した。

 かくして、一部の自民党候補や議員の中では、自民党や安倍の批判は一つの流行にさえなったのである。もちろん、彼らは自分が生き残るためにのみ、自民党批判をやっているのであって、その点では口先だけで「自民党をぶっこわす」と言った小泉と本質的に同じ汚い策動を弄しているにすぎなかった。

 しかしもちろん、今回の選挙闘争において最もデマゴギシュであったのは、安倍その人であった。

 彼は当初は、「国のあり方を問う」、「戦後体制の総決算だ」、憲法改定を訴えると断言していたのに、選挙中には憲法についてはほとんど語ることなく、もっぱら年金ミス問題で訴えざるをえなかった。

 しかし年金問題で一番責任を負う立場にある安倍は、いかにして国民大衆に「訴える」ことができたであろうか。もし彼がいくらかでもまともな人間であったら、まず政府自民党の責任を明らかにし、国民に謝罪することから始めるべきであり、次に、大規模なミスをもたらすほどに崩壊し、破綻しつつある年金制度を、今後に向けていかに根本的に「改革」するかを明らかにすることであった。

 だが、安倍のやったことは違ったのである。彼は口先だけの美辞麗句を連発しつつ、年金問題の矛盾や、それをいかに解決するかと言ったことはほとんど語らなかった(否、語ることができなかった)のである。安倍は「できることしか言わない、言ったことは必ずやる」と大見えを切ったが、しかし「一人といえども漏れなく給付できるようにする」といったことが空文句であり、“選挙目当ての”空疎な人気取りにすぎないことは一目瞭然であった。

 実際、年金ミスを一掃するために最大限の努力をするといったことは当然のことであって、そんなことしか言えないような安倍にあいそをつかしたとしても、悪いのは安倍であって、有権者ではない。

 有権者が望んだことは、年金ミスをもらたした原因であり、それを必然化した制度の欠陥であり、いかにミスを一掃するような改革を行って行くかであって、単なる空文句ではない。

 現在のような深刻な年金ミスに対し、ただ小手先の、言葉だけの対応で済まそうという安倍の安易さ、軽率さが見え見えであった。問題は根底的な“改革”であって、小手先の術策など無用だということが、“おぼっちゃん”の安倍にはわかっていないのである。

 もちろん、根本的な年金「改革」とは、年金の一本化といったことではないし、また「基礎年金を税金で保障する」といったことでもない、それは今は資本のもとで行われる社会的生産を、万人の責任で、万人が共同してになう体制に変革するとともに、社会として養うべき人々――成人以前の人々、あるいは労働不能者たち――に対する生活全体の保障を確かなものにする、ということである。

 どんなまともな「改革」とも無縁な安倍は、ただごまかしの「改革」を持ち出し、デマゴギーに走る以外なかったし、走ったのである。そしてそのデマ的選挙闘争の核心は、年金ミスは権力の座にあった自分たちの責任ではなく、基本的に野党一般職員や労働組合にある、ということであった。

「年金の問題は社会保険庁の体質に大きな原因があった。労働組合と責任者の癒着があり、悪しき体質がある、それをこわさなくてはならない。国鉄がJRになるときも野党は反対したが、いま反対している人たちも同じだ」

 安倍の言うことを聞いていると、年金改革でしっかりやってきたのは政府自民党の方であって、野党や労働組合は足をひっぱる役割を果たしてきただけだ、ということになる。

 だが、政府自民党が何もやってこなかったということ、あるいはそもそも年金問題に重大な欠陥やミスが広範に存在していること自体を、自覚して来なかったのは自民党であったということは明らかである。

 今回のミスが明らかにされたときも、それは大した問題ではない、いたずらに不安をあおるべきではない(百年は大丈夫の年金制度を二、三年前に確立したばかりだ)と言って、この問題を握りつぶそうとしたのは安倍であった。安倍が年金問題における深刻な矛盾も、その破綻も全く自覚していなかったことは明らかであった。

 しかし参院選を前にして、安倍は「年金制度は問題がない」と突っ張ることはできなかった(そんなことをしたら、参院選で自民党は完敗し、消滅してしまいかねなかったから)が、しかし自分たちの責任を認めることもできなかった(というのは、これもまた自らの敗北につながるだろうから)。

 かくして安倍は、口先だけの約束を並べると共に、悪いのは野党であり、職員であり、労働組合であるというデマ的攻撃を開始したのであり、するしかなかったのである。彼が強調したことは、社会保険庁の役人が――というより、なまけていた一般職員が、そして職員になまけることを奨励した労働組合が――悪い、というへりくつであった。

 だが、問題は「悪しき公務員制度」だと攻撃し、「親方日の丸」でやってきたから、現在の年金問題が生じてきたというが、その社会保険庁を管理し、支配してきたのは誰だったと言うのか。この国家機関に責任を持つのは、一般の下っぱの職員ではなく、国家の上級の官僚つまり社会保険庁の長官であり、厚労省であり、政府であり、首相であるのは自明のことであった。下っぱの役人の持つ“権限”といったものは「たかがしれている」のであって、そんなものに、年金問題の根幹にかかわるミスや欠陥の「責任」を転嫁できるはずもないのである。

 そもそも「親方日の丸」が悪いというが、それはまず「親方」が悪いということではないのか、そしてその「親方」とは国家の上層の官僚層や頂点に立つ政府自民党の連中であり、安倍のことではないのか。安倍こそ、巨大な権力を握る「親方」であり、年金ミスに決定的な責任を負っているのであって、それを、何の力もない下っぱの職員たちに転嫁するとは、彼は何という恥しらずな男であろうか。国家機関のミスの責任は国家のトップの責任であり、したがって安倍の責任なのである。安倍に「親方日の丸」を非難する資格は全くないのである。

 実際は、政府自民党こそが社会保険庁やその他の国家組織の悪徳役人たちと結び付き、癒着して「年金制度」を管理してきたのであって、「親方日の丸」を言うなら、その「親方」とは政府自民党以外の、安倍以外の誰でもないのである。

 そしてそもそも、公務員が労使協調に走り、「親方日の丸」の日和見主義路線にはまりこんでしまったというなら、それは政府自民党が奨励してきたことではなかったか。社会保険庁にせよ、年金の管理にせよ、それがいいかげんなものになり、この官庁が頽廃したというなら、その「責任」はまず、「親方」である政府や厚労省にあるのであるということは余りに明らかであった。堕落した労働者や労働組合は批判されてしかるべきだと言っても、安倍はそれを喜びこそすれ、攻撃する謂われは全くないのである、というのは、安倍等の「親方」たちこそが、労働組合運動の堕落を歓迎し、奨励し、そのためにアメをちらつかせ、あるいはしゃぶらせるなど、あらゆることをしてきたからである。いまさらのように、社会保険庁の「労使協調」「労使癒着」も何もあったものではない、それは安倍等こそが望んだもの、期待したものだからである。

 もちろん、年金問題は、現場の職員に「働く気があったか、なかったか」といった矮小な問題ではないことは余りに明らかであって、卑しい安倍らは自分たちが負うべき「罪」や「責任」を職員に転嫁し、問題をすり替えようとしたにすぎない。安倍は、自分たちの責任や犯罪を回避するために、何としても、どこかに「犯人」を見つけだし、あるいはでっち上げて、フレームアップを企む以外なかったからである。

 仮りに、現場職員の士気が高くなかったとするなら、それは社会保険庁の制度の問題であり、さらには社会保険庁の具体的な仕事の全体に責任を負うべき指導層、管理者の問題であって、個々の職員がいかにして「責任」を負えというのであろうか、負えるというのであろうか。

 他方、社会保険庁の長官はエリート官僚であって、しかもわずか二、三年くらいで交代し、“現場”の仕事などにどんな関心も持たない、腰掛け長官でしかなかった。彼は自らの仕事に責任を持って対処することはなく、また制度の欠陥を克服するために何か努力したり、提言したり、積極的に動くことはほとんどなかった。

 というのは、彼らは一時的に、自らのキャリアアップの道程で、たまたま座った一時的な地位であり、そこで何ごともなく無事に務めあげることが重要であって、いざこざや問題を起こすことはマイナスでしかなかったからである。

 また制度的なことは、政府や国会の中で決まることであって、一介の官僚にすぎない長官のどうこうできるものではなかったからである。だから、彼らの主たる関心は高給をはみつつ、何か大きな問題や障害が起こることなく、“任期を全うする”ことだけであり、将来の出世コースに傷がつかないように配慮すること、つまりあたりさわりのない二、三年を過ごすことだけであった。

 だから、社会保険庁が仮りに頽廃したというなら、それは年金制度の全体がすでに行き詰まっていたからであり、その反映に過ぎなかったのであり、個々の職員はおろか、長官さえも、何ごともなし得なかったのである。長官が何もなしえないとするなら、やろうとしなかったとするなら、どうして個々の職員が重要な何ごとかをなしえたというのであろうか。

 職員が四十五分のパソコン作業をして十五分の休止の時間を取るといった労使間で結ばれた協約が、何か年金ミスの原因ででもあるかに言いはやされたが、しかしこんなおかしな論理のすり替えはないのである。こんなことが、年金ミスの原因であったわけでは全くないのである。

 安倍等は職員の休憩時間を批判するなら、自ら毎日ずっと、そうした同じ機械的な作業を何ヵ月も、何年も繰り返してから言うべきであろう。それができないのなら、労働者保護のための労働条件の規定の意義を安倍は承認すべきなのである。民間にはそんな規定はないというが、それは一面では安倍の無知でしかなく(というのは、同じようなものは種々あるから)、また他面では、民間の労働者保護が十分でなく、資本によって過酷に、非人間的に搾取されていることを教えているだけのことにすぎない。

 そもそもこうした労使協定は、労働組合と社会保険庁の長官ら管理者の間で結ばれたものであって、それがよくないというなら、それを結んだ管理者や政府の責任ではないのか。

 社会保険庁の労使は「なれあっていた」、だから年金ミスがはびこったなどと言うが、「なれあう」ためには相手があるのであって、なれあうことで年金ミスが出たというなら、むしろ社会保険庁の長官等がまず「なれあって」いいかげんな管理をしたということこそ問題にされ、糾弾されるべきであろう。なぜ安倍は自分の仲間内である、歴代の社会保険庁の長官を非難しないのか、彼らの責任を問わないのか、歴代の厚生大臣や次官等々はどうするのか、かつて厚生省の指導をする地位にあった安倍自身の責任はどうなのか。個々の職員の責任より、安倍等の責任の方がより決定的ではないのか。

 むしろ政府自民党は労働組合運動を徹底的に抑圧して来たのであって、労働組合の力が社会保険庁の経営方針を左右し、支配したかに言いはやす安倍こそが、汚い、いいかげんな理屈を、半デマゴギーを弄しているのであって、ただこのことだけからも、安倍は首相の資格などないことを暴露するのである。

 安倍は今、自分が年金制度の「改革」の先頭に立っており、野党や労働組合はそれに「抵抗している」といった、小泉から学んだ姑息なやり方を採用している。年金問題には「悪者」がおり、それは「働かない」職員であり、その「既得権」を擁護する野党や労働組合だ、自分は「正義の使者」として彼らを討つ、というのである(こうした幼稚な論理を持ち出せるというのは、確かに“おぼっちゃん”の安倍ならでのことである)。

 彼は「社会保険庁を改革し、働く意思のある人だけ残ってもらう、やる気のない人は辞めてもらう」と、自分の方が職員より偉い人間、上にたつ人間であるかに絶叫する(何という品性のない人間か)、そしてかつての国鉄の民営化や郵政民営化の例を持ち出して、それは成功した、同じように年金制度もやるべきだと言うのだが、しかしもちろん、国鉄や郵政の問題と年金制度を同じに論じることはできないし、また同じように年金制度も「民営化」すると、安倍が主張しているわけでもないのである。

 職員が「なまけてきた」からだめだと言うなら、そんな社会保険庁をほったらかしてきた政府自民党の「なまけてきた」ことはどうするのか。それこそがよほど問題であろう。

 安倍は大げさに、社会保険庁は解体すると言うが、彼が主張することは、せいぜいそれを特殊法人にするといったことにすぎない。しかし特殊法人もまた国家機関であり、それらがどんなに腐敗したものであるかは、小泉政権のもとでもさんざんに言われ、「特殊法人改革」が論じられてきたのである。

 官僚の天下り先としても、特殊法人は重要なのだから、官僚の天下りを規制するという安倍――実際には、政府公認の天下り制度をでっちあげようとしているにすぎないが――は、どうして特殊法人など持ち出すことができるのか、特殊法人化を何か根本的な“改革”だと僭称するのか。一体、それは現在の社会保険庁とどれほど違うというのか、政府機関もしくはそれに準ずる機関して、本質的に違いがないからこそ、特殊法人ではないのか。

 特殊法人にして、その場合、職員は全員首を切る、「やる気のある人だけを再採用する」、かつての国鉄のようにやると安倍はわめくのだが、しかし国鉄民営化のときの陰険で汚いやり口こそが、阪神電鉄福知山線のあの事故につながったという反省が、安倍等には全くない。あの事故の責任は、つきつめれば、国鉄破綻に対する自らの経営責任をごまかすために、強引に、無理やりに国鉄民営化につっ走った安倍のような連中、自民党の連中こそが負うべきなのである。

 国鉄や郵政の「民営化」は成功したなどと叫ぶが、それはブルジョア的観点から見てのことであって、労働者から見れば、関西の鉄道事故からも明らかなように、国鉄民営化とは、労働者を徹底的に抑圧し、労働強化を押しつけ、競争をあおりたてることによって、無理に無理を重ねることで利潤をあげようとしてきたということであり、その矛盾やマイナス面こそが大きな事故として噴出して来たのである。ブルジョア的に成功したなどといっても、労働者にとっては(“利用者”にとってさえ)いいことはほとんどなかったのである。

 彼は国鉄でも「職員が働かなくて」赤字が累積した、社会保険庁と同じことがあったが、改革してよくなったと言いはやすが、しかし国鉄の経営破綻は自民党の政治家たちが「我田引鉄」――自民党の政治家たちが、自分の選挙区に、必要があろうがなかろうが、採算のあやしげな鉄道を引いてくる――等々のためであって、個々の労働者に責任があろうはずもなかったのである(むしろ国鉄労働者は、自民党と結託した国家官僚や経営者による乱脈経営の被害者でさえあった)。

◆“経済成長”の空手形を“乱発”

 そしてまた、デマゴーグとして安倍が言いはやしたことは、経済成長政策を今やっている、経済が成長するなら年金も保障される、といったことでしかなかったのである。さらに資本主義的繁栄が継続し、拡大していく、そうすれば、どんな困難も一掃されるというばら色の幻想で有権者をつろうというのである。もちろん、今後のことはだれもわからないのであって、これからは安倍の珍奇な政策によって資本主義的繁栄が一気にやってくるなどと言うのは自由であるが、しかしそんな不確かな見込みを有権者が信じなかったからといって、それは有権者が悪いのではない。

 労働者はすでに一九六〇年代の池田の時代――彼は「所得倍増計画」を持ち出して、国民の幻想を拡大したが、それはすでに一九八〇年代末にははじけ飛んでしまった――から、自民党の連中のそんな話を散々に聞かされてきたのであるが、その結末が、一九八〇年代のバブルであり、その後の「失われた」十年、二十年の不況であり、さらには現在の何千万という労働者の“非正規の”労働者への転落であり、数百万という「ワーキングプア」の出現である。

 安倍にとって、「経済成長政策」は打出の小槌なのである、つまりそれを振れば、あらゆる富や財宝が飛び出してきて、地上の楽園が出現するのである。もちろん、こんな空手形で、選挙で有権者を釣ることができるはずもなかったのである。

◆精神主義では“教育改革”はできない

 また教育問題でも同様であって、いじめの問題は「見て見ぬふりをしてきた学校、教師、教育委員会」の責任であるとわめき、「原点にさかのぼって」教育改革をやる、道徳をしっかり教え、学力向上と規範意識(愛国主義や教育勅語が有していたような倫理感等々)を身に付けさせる、と豪語したのである。

 教育荒廃をもたらした政府自民党のこれまでの一切の責任を棚上げして、教員が悪い、日教組が悪い、野党が悪いというのであるが、権力を握り、教育に責任を負ってきたのは、安倍等の政府自民党である、ということを全く忘れているのである。

 いじめの問題や、学校現場の多くの困難や問題を、現場の教師の責任だというのである、つまり年金の問題と同じく、悪いのは職員や労働者であって、それを支配し、管理してきた安倍等の責任ではない、というのである。この連中は社会の権力を握りながら、その矛盾が出てくると、それを労働者や国民全体の「責任」だというのだが、しかし彼らは口を開くと、自民党こそが政権の座についている「責任政党」だと言うのである。

 とするなら、今や労働者は彼らのことを「無責任政党」と言うしかない、というのは、年金問題も教育問題も、その矛盾や困難に対して一切責任を負わないからであり、負おうとしないからである。安倍が言い得る唯一のことは、これからは責任を負うのだ、心配ない、ということだけだが、しかしこれまでの責任も自覚せず、またまともな反省も総括もできない安倍たち、したがってまた「改革」もできない安倍たちが、今後もどんな「責任」も果たしえないことほどに確かなことはないのである。

◆「確かな野党」の不確かな政治

 最後に我々は共産党の選挙闘争についても一こと言っておかなくてはならない。

 この党のスローガンは「確かな野党」だというからお笑いである。こんなスローガンで労働者大衆を引き付け得ると考えているとするなら、共産党官僚の現実感覚は全く麻痺している、磨滅していると言うしかない。

 一体「確かな野党」とは、どんなものなのか。

 信用できる野党ということか。自民党にすり寄る民主党、半ば与党である民主党などと違って、野党として動揺しないということか。

 共産党は事実上、野党の立場を固定化し、絶対化するのだが、それこそこの日和見主義の党にふさわしいことであろう。

 共産党が「野党」の地位に満足するということは、自民党の権力がずっと続くということである。このことを前提にしなくては、「確かな野党」というスローガンが空虚になるということは自明であろう。真の労働者党の課題は、自民党権力を打倒し、それに代わることだから、野党の地位に留まるなどというスローガンを掲げて選挙戦を闘う政党の愚劣さは余りに明らかであり、自ら日和見主義的なプチブル党であると白状するようなものである。これはいわば、永久に自民党権力のもとにあります、という奴隷宣言でなくて何であろうか。

 しかもこの政党は、年金問題で、この問題はどの政党が正しいとか言うことではなく、諸政党が知恵を出し合って最善の解決策を見出すことである、と安倍内閣に救済の手を差し伸べ、安倍らから共産党だけは野党の中でもまともだ、「共産党の議員は建設的な議論をしており敬服する」と賛辞の言葉を頂戴するまでに堕落している。

 そして共産党は自分が持ち出した案が、安倍内閣によって取り込まれたのを、まるで鬼の首でも取ったかに自慢するのである。まったくアホとしか言いようがない。つまり「確かな野党」とは、安倍に評価される野党ということであったのだ。


お仕着せ“革命家”宮本顕治
“スターリン主義”の呪縛にとらわれて

 宮本顕治が亡くなって、その評価がかしましく論じられている。しかし我々にとっては、いまさら改めて評価するものは何もない、というのは、すでに数十年前から(一九五〇年代後半から)、労働者とその階級闘争、社会主義闘争を裏切る宮本の本性は余りに明らかだったからである。

 彼は一九五八年から六一年にかけての“党内”闘争に勝利して、共産党の権力を握ったが、もちろんそれを社会主義に向けての闘争のためにではなく、ただ自らの“官僚的”体制とその強化のためにのみ用いたのであった。彼はその思想や理論や実践において“スターリン主義”の呪縛に深くとらわれていた。

 彼の“戦略”は「民族民主革命」論(「二つの敵」論)であり、「二段階革命」論であった。

 「二段階革命」論とは、まず、「民族民主革命」、それから「社会主義」へ進むといった“戦略”であったが、社会主義へ進む場合、果たして革命を想定しているのか、“平和的に”移行するかは決して明言されなかった、むしろニュアンスとしては後者であった。そして、「二つの敵」論とは、日本の労働者人民の闘うべき相手は、「アメリカと日本の独占資本」であるということである。

 二つの敵論は、当時党内で対立し、争っていた二つの傾向、つまりアメリカとこそ闘うべきだ、それこそが主敵だという“民族革命論者”たちとも、日本独占資本こそが現実的な闘いの相手だと主張した“社会主義革命派”とも対抗できる(あるいは両者を籠絡し、つなぎ合わせ、まとめ得る)という、官僚的、俗物的発想から生まれたドグマであった。それは宮本の頭の中の形式的図式であって、現実の両国の独占資本の関係とか、日本の権力関係とか、階級闘争の課題とかとは無縁のもので、ただ二つの見解の真中をとり、両者を折衷させただけのものであった。

 しかも宮本は表面は「革命」を口にしながらも実際には、当時“流行”し始めた“構造改良派”に接近し、動揺していた(構造改良派に傾いていた)不破哲三らをも“取り込んだ”のであった。

 宮本の「民族民主革命」論あるいは「二つの敵」論とは、要するに、一方でアメリカに対する「日本の従属」があり、また他方で日本独占資本の支配がある、とするならこの両者が「敵」であるのは自明であって、両者に対する闘いを提起するのは“常識的にみて”極めて妥当であり、何人といえどこの見事な“戦略”に異議を唱えることはできない、というまさにご託宣であり、教条であって、闘う労働者の綱領ではなかったし、またそうなり得なかったのである。

 仮に日本の独占資本がある意味で「アメリカに従属」していたとしても、その性格や意味が実際的に規定されなくてはならないのである。アメリカの軍事基地があり、日米安保条約があるから、日本はアメリカの「半植民地」であるといったことが安易に言われ、日本の国家がすでに基本的に“主権”を回復した国家、独立した国家であるということは無視され、それを語ることはタブーとされた、というのは、それは宮本路線にとって具合が悪かったからである。現実が重要なのではなく、宮本のドグマが優先されたのであった。

 そしてまた、日本が“民族独立”だけでなく、“民主主義”もまた獲得しておらず、だからこそ「民主革命」だという理屈は、さらにばかげたものであった、というのは、戦後日本がブルジョア民主主義国家に“純化”したことは明らかだったからである。すでに“民主主義”を勝ち取った国、したがって「民主主義革命」などが空論的になった国において、それを持ち出すほどの日和見主義と混乱と愚かしさはなかったのである。

 そしてまた、「民族民主革命」論は、必然的に「二段階革命」論、つまりまず「民族民主革命」、ついで社会主義への移行というドグマと結びついていた。

 プチブルインテリたちは、こうした共産党に追従しながらも言ったものである、少なくとも革命の「第一段階」、つまり「民族民主革命」――もちろんここには「革命」といった内容は最初からなかったのだが――までは自分もついて行ける、賛成だ、しかしその後のことははっきりしない、一体何をするつもりか、「共産党の治安維持法」を施行して、スターリンのように独裁体制を作るつもりか、と問いただしたが(例えば、臼井吉見ら)、もちろん宮本はまともに答えなかったし、答えることはできなかった。

 宮本は一九六〇年当時は勇ましく「革命」について語った、しかしその「革命」論のインチキな、日和見主義的本質はすぐに現われて、この「革命」路線はたちまち「民主的改良」路線に堕したし、堕さざる得なかった、すなわちその改良主義的本性をたちまちあらわにしたのである。

 民族民主“革命”を謳い、構造“改良”路線に表面は反対した宮本ではあったが、その“路線”のもつ日和見主義的な本性は、いまではすっかり明らかになっている。

 共産党は今や、二〇〇〇年には、綱領から「社会主義」や「前衛」の言葉を削り取ってしまった(彼らは市場経済つまりブルジョア社会もまた社会主義と矛盾しないと、盛んに言いはやしている)。あげくのはてに、〇四年の綱領改定では、さまざまな理屈やごまかしの保留を付けながら、天皇制や自衛隊もまた容認するまでに堕落した。

 とするなら、労働者は宮本について語るとき、社会主義と労働者階級の解放運動の背教者として以外の、どんな名で呼ぶこともできないのである。

 我々は宮本路線について、その根底について論じたが、それ以上の全面的な点検はまた別の機会を待つしかない、しかし宮本の評価としてはさしあたりこれで十分であろう。


林紘義氏の新著紹介
「不破哲三の“唯物史観”と
『資本論』曲解」

不破の理論的マジックを暴く

 林紘義氏の新著『不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解――マルクス主義をjargonにすりかえて』が発行された。

 この労作が奇しくも宮本顕治の訃報が伝えられるなかで刊行されることになったのはもちろん偶然に過ぎないが、歴史のちょっとした“いたずら”というものであろうか。というのは不破こそは宮本によってその理論的忠犬ハチ公としての特異の才能を見込まれて党中央入りし、その引きで党官僚としての栄達の階段を上り詰めていった人物だからである。著者はこの男の役割を特徴づけて、こう指摘している。

 「不破の党内での一番の役割は、その取り柄は共産党の日和見主義的堕落を、何か理論らしいもので粉飾し、ごまかすことであり、またその仕事こそ彼の得意とするものであった」

 実際、宮本のエセ急進的な「民族・民主革命」路線がそのアナクロニズムの故に現実を前に行き詰まり、破綻をさらけ出すなかで、共産党は「資本主義の枠内での民主的改革」というブルジョア的改良路線へとカジを切り、それを純化させ、日和見主義的な退廃・堕落の一途をたどっていくのだが、しかしその際、宮本一派は言葉巧みに破綻を取り繕い、日和見路線の深化を創造的発展であるかに偽って、党内外の労働者を瞞着しなければならなかった。そうでなくては労働者大衆の不信と離反を招き、彼らは党官僚としての地位を失いかねなかったからである。

 そして、こうした時こそ宮顕の茶坊主、我が不破君の出番なのである。彼はあらゆる詭弁とペテンを弄して綱領路線の破綻をごまかしつつ、いっそうの日和見主義への旋回(今ではブルジョア体制とほとんど融合するにいたっている)を擁護し、あまつさえそれが何か新たな発展や前進であるかに見せかけるために狂奔するのだが、その際、彼はそれをマルクス主義の用語や教条を総動員してもっともらしく正当化し、合理化し、権威づけ、人々を煙に巻くという理論的マジックにおいて希有な才能を発揮するのである。

 だが、言うまでもなく、共産党の俗悪な日和見主義をマルクス主義の革命的な理論や精神と折り合わせることなど土台無理な相談というものである。そこで不破は自らの都合に合わせてマルクス主義の理論や原則を歪め、ねじまげ、修正せざるを得ない。そして、この手段に訴えるに、彼ほど強引で厚顔無恥で良心に欠ける男も珍しいのである。

 かくして不破はこの数十年間にわたり、本書の副題にあるようにまさに「マルクス主義をjargonにすり替えて」、政治・経済・思想等々あらゆる分野で俗流理論の巨大なボタ山を築き上げてきたのである。

 もちろん、不破の理論的マジックは、少し検討すれば容易にネタの割れる類いのものが多いのだが、しかし中には一般の労働者にとってはそう簡単には見破りがたいものもある。今回、著者が取り上げているのはいわば後者の部類に属するもので、具体的には目次を見ていただければ分かるように、経済的社会構成体論やアジア的生産様式論に関連した不破の唯物史観のでたらめな解釈や、市場経済論や恐慌論などをめぐる不破の『資本論』の曲解を批判したものである。

 この点で、著者自身、前書きで断っているように、確かに本書は一般の労働者にとってそう取っ付き易いものではないであろう。しかし、著者も言うように普通の労働者になじみの薄いこうした分野こそ「不破の付け目」であって、彼はこうした理論問題に労働者が不慣れであることをいいことにそのペテン師的本領を存分に発揮し、マルクス主義に勝手気ままな解釈を施して、とことんそれを歪曲し、労働者に「マルクス主義の名で腐った雑炊を奨める」のである。

 具体的な内容については読んでのお楽しみということであえて立ち入らないが、林氏は「不破のへりくつの一つ一つを具体的に取り上げ、検討し、その本当の意味を暴露」する(つまり不破の手品のカラクリを一つ一つ余すところなく暴き出す)ことで、そのよこしまな理論的詐欺師としての化けの皮を引きはがし、そのエセ理論家としての虚像を打ち砕いている。著者の明快な論理、その快刀乱麻を断つ筆運びに読者は痛快さと爽快感を覚えずにはいないだろう。

 不破は盛んに『資本論』にケチを付け、その未熟さや不十分さをあげつらい、今や自分はマルクスを超えたとさえうぬぼれるまでに至っているが、もちろんこんなものは夜郎自大もいいところで、それどころか実際には彼はスターリン主義を少しも卒業しておらず、その頑固な伝統保持者、その現代版の焼き直し屋にすぎないのである。これについてもまた本書は完膚無きまでに暴露している。

 本書で取り扱われている問題は皆いわば共産党の理論的根底をなすものであって、著者の強調するように「不破理論に対する批判は、共産党のプチブル的、ブルジョア的実践と政治的堕落に対する批判の一環であり、またそうしたものとして、徹底的に、最後まで行われなくてはならない」。そして、本書の一番の意義はまさにこの闘いに強力な武器を提供することにこそある。労働者は“難解”と敬遠するのでなく、こうした分野にも果敢に挑戦し、闘いを貫徹しなければならないだろう。

 このように本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環であるが、同時にまた本書はマルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるであろう。

 読者の皆さんが本書をぜひお読み下さると同時に、労働者や青年のなかに広く積極的に持ち込み、普及・活用してくださるようお願いしたい。

(WM)

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